それこそが遊びのふりした祈りなのかもしれない。

凄くいい話を聞いて、衝動は大切にできるし、してもいいんだと思った。自分が信じている価値観を同じように支持する人がどこかにいるのだと知ることは案外大きな力になる。

そういえば、この間もらったコメントがとても嬉しかった。どの言葉がとか、美しい言い回しとかそんなのじゃなくて、気持ちが伝わってきて良かった。それも同じようなことで、なんとなく忘れられずにいる。

夜はラジオを聞いていたら明けた。暑くて眠れないし冷房を入れてもう起きていた。部屋は涼しくなったんだから眠ればいいのに起きていた。

食事をしながら映画を見た。難解すぎて全て見る体力と気力はなかった。途中で止めて寝た。

長めの昼寝くらい寝て、夕方着替えて買い物に出た。雨が降る予報だったからいつもより近い店で済ませた。液体ばかり買って重くなった鞄を背負って帰る。元気が出るアルバムを聞きながら薄暗い道を漕いだ。

終わってほしくないことが多くて、でもそのために何をするでもなく過ごしている。雨上がりは地面が湿っているからか犬も猫もいなかった。

欲張りだけど、欲がない寂しさよりは楽だと思う。久しぶりに小説も開いて、アニメも見た。受け入れたものは、なるだけ多く細かく分かりたいし、それを何かしらの形にしたい。

単純なもので、読んだり聞いたりすると染まってしまう。しっかり意識すれば語尾など簡単に変化していく。誰の影響も受けなかったら自分はどんな言葉を使っただろう。そしてそのときみんなと同じような言葉を自然と選んで使えるのだろうか。

自分の言葉の多くは、別に聞かなくても困らないラジオや別に読まなくても困らない小説や別に聞かなくても困らない音楽などから備わっているような気がする。何からも影響を受けないことはありえないと分かっているけれど、もしそういう無駄なことを全く吸収しなかったとしたら今よりどうなっているのかが気になるのだ。

整理できない漠然とした感情や疑問が頭の中で散らかっている。この小さな脳味噌の狭い部屋では足の踏み場もなくなりそうだ。ひとつずつ棚に仕舞い込んでみようか。そしていっぱいになった棚が何かしらの形になっていればこんなに嬉しいことはない。それが芸術の始まりならその発見は、とても些細なことだけど、とても凄いことのように思った。

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