こんなことで泣きたいわけじゃないのに。

昨日は凄く楽しくて良い日だったけれど、最後の最後に悲しい報せがあった。最近なぜか威勢がいいと思っていたけれど、それは勢いづいていたんじゃなくて終わりが決まっていたからだったんだ。

それは気持ちがあればとか言って、時間やお金を費やさなかった自分たちのせいなんだ。あれもこれも気持ちがあればとか言って、時間やお金を費やさなかった自分のせいなんだ。

ずっと続くと思っていることを考えていて、それは続けようと思い続けて心掛け続けないと簡単に途切れてしまう。今が大丈夫だから、この先もなんとなくやり過ごせると錯覚してしまうけれど、それはただの錯覚だからいつか終わる。何とかなった想像をしてみるけれど、終わってしまえばそれはもう虚構で幻なんだ。

これを見たとか何を食べたとかどうだって良い。それを見せびらかさないと自分は幸せ者だと思えないのか。羨ましいと思われないと充実や満足は得られないのだろうか。そんなの寂し過ぎるだろう。

今の幸せや高ぶりにちゃんと気づけないと、失くしたとしても失くしたことさえ気づけなくなる。

誰かに翳してしか幸福を感じられないなんて感受性どうなってるんだ。敏感すぎるのか鈍感すぎるのか分からないけれど、針が振れない人と一緒にいたってつまらない。自分はそうなりたくないんだ。それに尽きるけれど気持ちなんてだいたい一言でまとまってしまうから仕方ない。

駅まで歩くとき、なんでここにいるんだろうと少しの不満が苛立ちへ成長し始めた。抑えられなくなる前に帰りたかった。誰にも会いたくなかったし、誰とも話したくなかった。

電車に乗って、安い乗り継ぎを調べるけれどよく分からなくなって真っ直ぐ帰ることにした。小説を読んで音楽を聞いていれば、近所に海でもあれば行きたいと思えるまで回復した。

今日は早起きして敬老の日だからと電話をかけたり感謝の意を伝えたりしていた。本当は催促されたんだ。自分は出来ていない人間だからそんなこと覚えていられないんだ。

それから食事をして着替えて飛び出るように部屋を出た。電車を乗り継いで、人に会って、人を見て、人に揉まれた。集団に属していた。居心地は悪い。

結局は価値観なんだけど、やっぱり受け入れられないことがあって泣きたくなった。わずかに目に涙が溜まったけれど泣くほどでもなかった。あくびと同じ、当たり前になった異様な光景は退屈だったんだ。

広い建物のベンチに座っていたら親子がたくさん通った。右手にケース、左手に飲み物を持った子供がいて、買ってもらったばかりの贅沢な甘い飲み物に口をつける様を見ていた。横から親がケースを持ってあげようと手を出したら、子供は渡して飲み出す。宝物のようなカードが詰まったケースを簡単に預け、空いた右手はカップに添えられる。

子供の大切や宝物なんていとも簡単に変わってしまうんだと知った。この調子なら宝物は増えていく一方だろう。それほど全てのことに向き合えることが羨ましくなった。もう手に入らない新鮮さが欲しい。手に入らないから欲しいのか、激しさを求めているのか。とても客観的な自分が、お前の感覚だってまだ振り切れていないじゃないかと言う。

自分もあの人たちと同じだと渦に飲まれてしまえば楽になれるだろうか。順応できないから結局逆らってばかりで、居場所はできないだろう。それは今より嫌そうだ。

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