小さな波紋が泡のように照らされて。

昨夜小説を読み終わり、次はどれを読もうか考えていた。なんとなく手に取ったものを読み始めたので、それにすることにした。

開始早々人が死んでいた。事件が起きて、それを捜査する人が主人公だった。最近は事件を起こす側の話ばかりだったし、事件に焦点が当たっていないものばかり読んでいたから新鮮だった。

新しく手に取ったのは数年前によく読んでいた作家の本だった。一気に数冊読んだ後、合間合間で読んだはいたけれど、この感じだったと思い出した。

当たり前だけど作者が違うと視点が違って面白い。文体も人物の思考も違う。好きになったら同じ作者ばかり読むから、きっと思考もその時々で偏っているのだろうと思った。

初めは変な感覚を知りたくて読むのに、どんどん慣れていって気づかないうちに違和感がなくなる。そしてまた別の人の世界に入ると変な感覚に惑わされる。帰ってくると、この感じだったと思い出す。文体や感覚で雰囲気を思い出せるのは、作者が小説に色を付ける腕を持っているからだ。どこにでもある文章や物語ではないということだ。凄い。そんなものが書けたら、作れたら、なんて楽しいだろう。

今日は昼に起きた。朝起きて二度寝したら昼になった。食事をした。いつも水曜日に見る番組がなかったから水曜日じゃないみたいだった。代わりに別の番組を見た。

昼下がり、ぶら下がり、右肩下がり手書き文字を見ながら歌い、止まらなくなって八方塞がりの午後、いよいよ外に出るぞと意気込んで立ち上がった。

自転車を漕いで駐輪場に停める。隣に停めたおじいさんはヘルメットを被り、煙草を咥えていた。その姿が滑稽で面白かった。転んだ時、頭は守れるけど皮膚は火傷してしまうじゃないか。そもそも転ばないことが重要なのに、自ら安定を崩す姿勢が変だ。その人にとって、煙草を吸っていない方が不安定なのかもしれないけれど、両方がいいところを打ち消しあっていた。

帰りに湖畔の階段に座って詩を書いた。写真も撮った。凪いだ水面を鳥が裂いていく夕景を眺めていた。

鳥に餌をあげる人がいた。だから鳥は人間に寄ってくるんだ。困るけれどその光景や関係が途絶えるのは寂しい気がした。自分は第三者だから勝手でいられる。

眩しくなったり翳ったり、雲が流れる度、水面に反射する光も強くなったり弱くなったりしていた。

そこを去り、また自転車を漕いでいたら下校中の小学生におかえりと声をかけるおじいさんがいた。知らない人に声をかけられることに慣れていない子供たちは、少し戸惑いそのまま通り過ぎた。たぶん何も返事をしていなかった。そしておじいさんも何も気にしていないようだった。でもその背中は少し寂しそうだった。

挨拶でも迷惑がられるなんて嫌な世界だ。自分も、おかえりと声をかけてくれた近所の人たちに、もっと元気にただいまと言えば良かった。普段素っ気ない挨拶しか返していなかったのに、何かあれば心配してくれたあの人たちは優しかったんだ。お節介もあるけれど、助かることも確かにあって、その関係を作ってくれた親はありがたかったと今更感じる。

大切な人は安心して暮らしてほしいし、そんな環境を作ってあげたい。今日は湖を眺めて心に余裕があるからそんなことも思ってしまえるんだ。

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