冷え切った藍色の空が見たくなったんだ。

今日は昼ごろ起きた。食事をして、ギターを弾いた。

久しぶりに外に出る気持ちを育てていたのに、昼間から外に出る気になれなかった。夜になれば寒くなるのに、なぜか昼間の明るさに耐えられそうになかった。

着替えもしないまま時間を持て余して音楽を聴いて、動画を見て、弦を弾いていた。

自転車に乗らなくてもいいように、歩いて行ける場所に行きたい。リュックより手持ちのバッグ、ハイカットよりローカットの靴、ヘッドフォンよりイヤフォンを選ぶイメージは固めた。少し寒くてもお気に入りの上着を着たい。ボタンを全部閉めれば中は部屋着のままでも別に構わない。

日が暮れ始めて、部屋の中は冷えてきた。暖かい布団の上へ、ついに毛布をかぶってしまった。ああもうだめだ。

着替えさえ済ませればなんとかなりそうなんだけどな。

不意に、服に命かけてるひとは場をわきまえられる、と知ったことを思い出した。いつもは奇抜で派手な服ばかりでも、相手や場所によって無難で地味な服も選べるらしいのだ。当たり前だけど、それでも滲み出る雰囲気が本当の個性だと思った。

それはそうと、服に命かける人こそ野生と正反対にいる気がした。まだ服など着なかった過去、彼らは命を持っていないし、もう服など着なくなった未来、彼らは命を捨ててしまうだろう。

音楽も絵も演劇も、木の枝などと人間がいればできるけれど、服はもっと新しい気がしてならない。着るという発想の凄く先にある今、みたいな感覚がする。音楽も絵も演劇も、聞くの先で、描くの先で、動くの先にあるのは同じなんだけど、服に拘るのは五感ではない別のところにある神経を使っている気がした。

どこの誰かかも知らない人の言葉で気持ちが動いて、思考が生まれるのは面白い。それによって着替えが面倒になったわけではないし、むしろ自分も少し別の視点で拘ってみたいとさえ思える。

いつもの部屋着のまま毛布に包まって、そんなことをぼんやり考えた。

カーテンの外はもう暗いかもしれない。窓の外はもう寒いかもしれない。でも今日は澄み切った藍色の空を見るのも悪くないと思った。

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