夏が沈んでいく最中を漕いでいる。
夜、ラジオみたいな話を聴いていた。ラジオの定義ってなんだかよく分からないな。誰かが話す声を不特定多数が聞ける状態であることとするなら、ラジオを聞いていた。
忘れかけている感覚で話していて自分もそんな会話がしたいと思った。言葉で遊ぶような何も残らない会話がしたい。言葉は広く受け取らないとつまらないと言っていた。その通りだ。
話なんて身内ネタの方が面白いんだから、身内を増やしていくほうが楽しい。誰にでも通じる話ばかりをしてしまうから、天気とか趣味とかつまらない話に落ち着いてしまう。どこまで踏み込めるか分からないと怖がってしまうけれど、いつでも戻れる歩幅で進んでいければ少しは不安も和らぐ気がした。
朝方までそれを聴いていて、少ししたら日が登ってきたからもう今日は起きていようと思ったけれど、やっぱり寝てしまって、起きたら昼だった。
食事をして、着替えて、買い物に行こうと思っていたのにまた音楽に足止めを食らう。好きな服を着て前へ進む。今日は早めに立ち上がれた。
外はずっと曇りで、涼しそうなのに窓を開けても風はない。でも外に出ると吹いていた。
必要なものを買って、ちょっと高かったなと思いながらカバンに詰める。隣で袋詰めしていたおばあちゃんと同じタイミングで終えたけれど、おばあちゃんは出口ではない方へ向かっていたから自分と正面に向かう形になった。
ほぼ無意識のうちに、おばあちゃんが空になったカゴを重ねたそうにしていることに気づいた。積み重なったカゴは高い。おばあちゃんは届くところまで行こうとしていたから、自分はそのカゴを手に取って積み上げていた。そのあとありがとうと言ってくれて目があったとき、意識的になった。
効率や自意識はどこか遠くにいて、本当に考えていなかった。その状態で優しさが現れたことが自分でも嬉しい。気持ちがなければ偽善なのかもしれないけれど、それでも困っているなら助け合う方がいい。それが善悪ではなく当然のこととして自分の中にあることが嬉しかったんだ。
帰宅するとき、動かない蝉が転がっていて、もう夏が沈んでいるのかと思った。ひまわりは背を伸ばし、唐突に目が合う。青々と成長した稲の頭上では鳥が飛び回り、遠くの空の雲は絵画みたいだった。
川のさざなみが夕陽できらきらしていた。様々な色を含んで揺れていた。向こう側にもうひとつの世界があるんだ。もっと凪いでいたら飛び込みたくなるだろう。凪いでいたらって正しい使い方なのかな。
帰宅して、皿を洗って、米を炊いて、ゴミ捨てをしたら汗だくになっていた。肩を上げ、シャツの袖で汗を拭う。夏が染み込んでいくような気持ちだった。
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