夜を待つことのほかに何もしたくない。
もう空で言えない。シュプレマティスム、忘れかけている。ロシア構成主義の次はドイツ表現主義という言葉も耳に入ってきた。
ひとつ学べば生活の中にそれが紛れていることに気づく。これまで気づかずにいたことに気付けるのは嬉しいけれど、同時に怖くもある。こうやって少しずつ新しい世界の知識が増えていくんだ。もっと早く知っていたらそれは膨大な量になり、すでに物凄く深いところまで知っている向こう側の今が浮かんでしまうのは仕方ない。
今から増やしていけばいいだけだし、前から知っていたからといって興味を持つかどうかはまた別の話なんだ。
今日は用事があったから午前中に出かけた。行きがけに本屋に寄ったら小学生集団が施設見学をしていた。トイレも行列で急いだ。
階段の前には列を成した小学生に先生が、端に寄ってと声をかけている。いちいち言われないと気づけないのだ。言われたって理由を考えられない。小学生なんてそんなものだ、何も問題はない。
一気に小学生のころの空気感を思い出した。感覚は思い出せるけれど、自分はどんな風だったのかさっぱり分からない。大人びている様を演じているだけで、主観しかなかったんだろう。
もう本どころではない。早々に本屋を出て目的地へ向かった。
用が済んで、図書館へ行った。ロシア構成主義の作品が見たかったけれど、見つけられなかった。ドイツ表現主義の本も見つけられなかった。どちらもなかったのかもしれない。
いつも埋まっている場所が今日は空いていたから、そこを囲むように置かれた棚を見て歩いた。哲学書のコーナーだった。せっかくこの角まで来れたんだからと聞いたことのあるタイトルや人物の本をパラパラとめくってみた。
哲学書は最後まで明確な答えが出ないで終わるイメージがあったけれど、手に取った本は目次でタイトルの疑問を教えてくれていた。それはつまりタイトルの付け方が上手いのだ。本当に考えたいことではなくて、その疑問を言い換えた言葉を使い、読者の気を引いていた。資本論やコモンセンスだって同じような手口であるような気がした。それらの一部もしくはすべてが間違っているかもしれない。
すべて間違いの日記だって書くだろう。今日は夜空を飛んだとか、月で未知の生物と友達になったとか、そんなことのほうがやさしいけれど、自分は意地悪なのでいつかの自分さえ騙していく。
捻くれもそこそこに、いつか手に入れたい本を手に取り、好きな詩をまた読んだ。気になった民族の本や、気になっている作家の図録も読んだ。
あれもこれも欲しくなる。知識だけじゃ足りなくて物が欲しくなる。いつでも読めるという安心が欲しくなる。でもそれを手に入れてしまえばいつまでも読まないだろうから、きっと今はこれでちょうどいいんだ。
今日はレコードが届いた。予約した時はとても先の未来に思えた今日が現実として訪れた。すぐにでも開封したい気持ちを押さえ込んで、箱のまま立てかけた。
今夜は別の楽しみがあるのだ。同じ日にいいことをたくさん起こさなくても取っておけばいい。引き伸ばすことだってできるんだから、明日のご褒美にすることにした。
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