開いていない穴の向こう側を覗くような。

大雨警報で目覚めた。何時なのかも分からないで起きたけれど、昼前だった。

外は当たり前に雨だった。もうこれがいつも通り、みたいな顔をしていた。窓を開けると少しだけ降り込んできた。小さい雨粒というより湿った風だった。

右耳でラジオ、左耳で雨音を聞いていた。雲が迫ってくるのを感じる波みたいな雨音だった。こんなに降ると教室の窓から見た景色を思い出す。校庭での体育とか水溜りができたグラウンドとかではなくて、視線はもっと高かった気がする。思い出したいのに、覚えていないから思い出せない。

雨の写真を撮ろうと窓を開けたら、よくベランダに来る鳥が今日もいた。全身濡れていた。今日は虫を咥えていなかったから、ここにならいてもいいよって言いたかったけど、網戸を開けたら向こうへ行ってしまった。本当は、ここにならいてもいいよ、よりも、ここにいるだけならいいよ、に近い気持ちだった。

でも鳥にとって雨はそこまで困るものではないのかもしれない。ただ視界が悪くて、食料が取れないくらいの厄介な日なのかもしれない。この日を越えられずに息絶えるとか、寒さで凍えるとか、季節もあるだろうけれどそこまで困ってなさそうな様子だった。でも顔はちょっと困ってそうだった。

昼は頻繁に警報が鳴っていて、全ての音を掻き消していった。生活も掻き消されるようだ。オオカミ少年も毎回信じてあげたい派なのに、こんなにも鳴ってると信じるとか信じないとか以前に、見る気も失せた。

新譜を何回聴いたら何かに応募して何かが当たるという、目的と方法がぐちゃぐちゃになっているキャンペーンと同じような鬱陶しさを感じた。あのやり方は狡いと思うんだ。狡いというか、それでいいんだって思っちゃうんだ。

数を回せばいいなら曲は短い方がいいし、最初から最後まで聴いて欲しいならイントロも間奏もアウトロも減らした方がいい。そうやって効率だけ良くなって、ただの商業音楽に成り下がってしまうのが嫌だ。

好きとか嫌いとか良いとか悪いとか以前に、観客じゃなくて消費者になってしまうことが寂しい。作ったものに対して金を払うという意味では同じなんだけど、気持ちの自由度が違う気がする。

そして、他人の感想を見たくない気持ちに段々と芯が入っていく。発見よりも共感ばかりで疲れるから、それならもっと自分の思うことに素直でいようと思った。言葉に出来ないことを言葉にしようとしていたけれど、別に論文を書くわけでもどこかで発表するわけでもないから、感覚としてちゃんと味わいたい。それを覚えておくためには言葉にしなくちゃいけないけれど、残しておきたいのが感覚なら選ぶ言葉も変わってくるはずだ。

雨だって斜めに降っているから、意見だって斜めに飛ばしたって良いだろう。その方がずっと後の自分まで届きそうだ。来ないはずのいつかが来たときも同じ違和感を抱いていられるだろうか。それともすっかり忘れて飲み込まれているだろうか。

別にどっちだって良い。今はそれより、昼下がりに雨宿りしていた鳥が、ベランダに糞をしていったことの方が気になっている。いてもいいよとか思ったのに、立つ鳥跡を流さずなんて嘘じゃないか。それに発つではなくて、立つなんだ。鳥は飛び立つの立つなんだ。別にどっちだって良いけどさ。

夕方、雨足が落ち着いてきた流れで暗くなっていく。今日も本の続きを少し読んで、何度目かの漫才を見て、同じ曲を繰り返し聴いて、そのくらいだった。

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