全てゼロになったら、本当に気持ちいいだろうか。
今日は昼前に起きた。寝る前に降っていた雨はまだ続いていた。
遠くで誰かが濡れているし、もっと遠くでは雨など忘れた子供が走り回っているだろう。この部屋からは見えないけれど、きっと確かで間違いのないことだ。でも確かめようもないし、どこまでも不確定なことだ。
好きな曲のイントロが弾けた。好きな絵を見た。良い報せに手放しで喜んだ。好きだった人のことが今も好きなのか分からないと思ったり、それが分かったとしてどうすればいいんだろうかと考えたりした。
ある人のイメージ、あることのイメージ、それらはほとんど空気感でしかなくて、捕まえられない。形を指でなぞることも出来ない。まだ足りないものだらけだから、指でなぞれないものを感じられない。逃げていく様を見ることしか許されないような、そんな気持ちになる。
良い音楽を聴くとこんな具合に変なことばかり考えてしまうから困るな。それでなんだと一蹴されればくずおれてしまう程度の強度しかない思考を巡らせて夕方になった。まだ明るいだけで時間はもう夜に近い。
気に入った曲を何回も聞くし、気に入った食事を繰り返すし、生活は怠惰でどんどん崩れていく。
窓を閉め切っているから雨が降っているか分からない。全てがふりだしに戻るとき、雨は降っているだろうか。今思ういろんなことや価値観が全く通用しなくなった世界は面白いだろうか。
それは老いるということに似ている。地続きに過ごしてきたはずなのにどこからか溝は深くなって、気付けば常識が変わっていく。そんなの怖過ぎる。でもそれが現実で、現実は想像より残酷だろうけど、優しさもある気がしてならない。
足並みを揃えることよりも、あらゆるものを認められる柔軟さが重要なのかもしれない。価値観なんて一瞬で変わるのにどうしてそんなことを考えてしまうんだろう。価値や意味について、答えもないし、誰にも共有できないことをぐるぐると考えているんだろう。いつまでも音楽や小説に縋っているのは、そういうものの答えを求めているからなのかもしれない。
なんかずっと眠くてぼんやりしていた。今夜は早く寝る。
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