徳の積み方、普通欲、もう信じられないよ、哀愁と矛盾。

徳を積むのは、良いことがあるようにじゃなくて、良いことがあった感謝がいい。ちゃんと上を向いて微笑むような素直さと狡さがあればきっと見ていてくれる。

眠れない夜中に布団の中でラジオを聴きながらそう思った。どこにいるかも、実在するかも分からない神様を信じて、空に向かって合図するんだ。

今日はそのまま起きていて、朝起きた。ご飯を食べた。見たかった番組を見て笑った。

予定より遅くなったけれど昼ごろ外出した。久しぶりに昼に外に出たら、上を向いても下を向いても凄く眩しかった。地面の白い部分も、金属の部分も、全部きらきらしていて目が痛かった。帽子を被ってこなかったことを後悔した。

店を数軒回って、必要なものを買った。高くて買わなかったものもいくつかあって、このまま値段が上がってこれが普通になったとして、自分はいつそれに気付くだろう。

普通について、考えることはよくあったし、多くの人だって同じだろう。多様性という言葉が浸透して、感覚としても馴染んできたから、普通なんて人それぞれだと言わなければならない風潮も広がっているように感じる。別に、変だと思う自由もあるのにな。

普通になりたいというのは、自分が悩みたくない悩みの枠で生まれる気持ちなんじゃないかと思った。こんなことで悩みたくないよ、とか、もっと他のところで悩みたいのに、の代替語なんだ。

自分も、多数派に入りたかった部分や、変えたいのに変えられない性質においては、こんな悩み持ちたくなかったと思う。

理解のあるふりをして信頼を得たところで、実は何も知らないなんて、信じたこっちの気持ちにもなってほしい。ひとりで抱え続けたことを簡単に世界に放って、力になったような顔をする。勝手に踏み荒らしたくせに、片付けを手伝ったような目をする。

繋がり続けることはできるけど、信頼は出来ないし、あの頃の距離にはもう戻れないよ。

朝か昼か、いつか分からないけれど、確信というか、気づきというか、結構大きく動揺することがあった。それから普通について少し考えたり、誰かを信じる慎重さを覚えたりした。自分には関係ないし、もう一生会わない人のもう一生繋がらない縁かもしれない。

別にどうだっていいはずなんだけど、切にこうであって欲しいと願ってしまう。単純で、簡単で、純粋な気持ちだった。

美容室の店先に干された白いタオルや、綺麗なままのタバコの空箱を通り過ぎて帰る。自分の影の中を通って、まっすぐな曲を聴きながら帰った。

自殺をしようだなんて悲しすぎるだけだ、と歌っている。楽しいこともないのに生き続けていくのも悲しくて寂しいと思った。多くの人がそうなんだから、みんな悲しいし寂しい。だから哀愁なんて言葉が生まれて、それが魅力的なんだろう。考えられるけど、考えすぎるから崩れてしまうような、想えるけど、想いすぎるから破れるような、そんな矛盾の中に生きているんだ。

寝てないからか、天気か、体調か、今日はそんな気分だった。

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