写したのはすでに過去、蘇る去年の今。

今日は何度寝か繰り返して気づいたら夕方だった。昨夜、好きな作家の文章について書かれた記事を読んだ。

行動や現象をそのまま説明するのではなくて、様子や表情で伝えるから落語的なんだと書いていた。なんだか妙に納得して、朝方寝た。なんだか、と、妙に、は同じような意味なら二重表現なのだろうか。もしそうだとして、意味が同じならどちらかだけしか使えないのだろうか。そんなことばかり考えるのはあまりに窮屈だ。

目が覚めても、起き上がる気にならずにだらけていた。ラジオを聴いていたら笑っていたので起き上がる。

今日は買い物へ行きたかった。水を飲んで、着替えて、音楽を聴いていたらどんどん時間は経って、日が暮れる頃になった。

田んぼに水が張っていた。そんな季節か、と思った。

自転車を止めて、柵に足を掛ける。水辺は小さくて軽い虫がたくさん飛んでいた。今日に限ってカメラを持って来なかったことを悔やみつつ、カメラよりも感覚的に綺麗さを捉えられる皮肉なまで便利な道具で写真を撮る。切り取ったばかりの風景を見て、まだ立ち止まっていた。

説明をしない文章は主観でしかなくて、それでいて第三者の視点で世界を見なければならない。彼の目はどこを向いているのだろう。

そこで時間を過ごしたせいで行きたかった店は閉まった。仕方ないのでそれより近くの店で必要なものを買って帰る。

品揃え豊富な体温計がやけに新鮮に見えた。戻ってきたというか、変わってしまったみたいだ。品切れになるほど求めていたのに、もう飽和してしまった。そのとき生まれた新しい種類はまだ残っているけれど、そんなにたくさん要るものでもないから余ってしまって、無駄に棚を占領していた。

この数年で変わったことはたくさんあるのだろう。もう慣れてしまって当たり前になった変化が山のようにあって、もう忘れてしまって元に戻れない変化だってきっとある。少し寂しいけれど、どんなことだってそうだ。

水道水を飲んだってお腹を壊すわけではないし、カラスにゴミを突かれたって爆破するわけじゃない。

久しぶりに友人から連絡が来て言葉に詰まったり、今日が学生時代の友人の誕生日だと不意に知ったり、それでもおめでとうの一言が送れなかったりする。そんなものなんだ。

数年前の後悔をまだ覚えていたり、数十円の損と数百円の得を正しく天秤にかけられなかったり、生活や感情なんていつもいい加減でわがままだ。でも結局、そんなものだ。

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