知らない街並みで暮らす友人と、当たり前に熟す彼らの毎日。

今日は早起きした。ご飯を食べて、テレビを見て笑っていたら時間になって、急いで着替えて外出した。

友人と待ち合わせた駅へ向かう。寝不足が気になったけれど、昨日買った本を読んでいた。昼前の太陽は眩しくて、本に反射してついに目が開けられなくなったから大人しく閉じた。

電車を乗り継いで行く。知らない街でも、知っている街と同じような生活が流れていた。ゆっくりと犬の散歩をする人は、犬が人間を連れているみたいに見えた。子供を乗せて自転車を漕ぐ人は必死に角を曲がっていた。どの町でも変わらない風景だった。

駅へ着いて、友人と会う。ご飯を食べて、空いた時間は観光して回った。とても喜んでくれて嬉しかった。

学生の頃、仲が良かった人たちのことを聞いた。どこにいるとか、どんなことをしているとか、全く知らなかった。あんなに頑張っていたのに、大企業に就職するわけじゃないんだ。地元に残ったり、知らない土地に住んでいたりしているらしい。みんながとても大人に見えた。

そのうち結婚して子供ができて、流れに乗っていくんだろうな。その景色が想像できてしまうからきっと間違っていない。

考えてみると、頑張るというのはそもそもが流れに乗っている気がした。あの頃までも、あの頃からも、みんなはずっと足並みを揃えていたみたいだ。どうしてその歩幅を教えてくれなかったんだろう。いや、きっと教えてもらったのに自分が出来なかっただけだ。

同じ学校、同じ地域で一括りにされている間はみんな並行に隣同士だから差が見えにくかった。でもそれぞれが違う方向へ放たれると、線だった道が一斉に点になる。別に何かを頑張っていたっていなくたって、いつだって人間としての点でしかない。小学生の時に川に放流した稚魚みたいだ。

でも足並みを揃えてみたい気持ちは消えてくれなくて寂しくなる。

同じ速さで泳げる魚は、遅いやつや違う方向へ行くやつを完全に理解することはできない。いろんな魚がいるんだから、個性的でいいじゃんなんて認めてくれるけれど、遅い側からすれば安心できない。やっぱり同じように進んでみたいし、同じ速さで窓からの景色を眺めてみたいと思う。

いくらそう願っても、あの頃の友達は何も変わらず進んでしまう。良くも悪くも同じ距離でいてくれると分かった。

友人と別れてから、本屋に寄った。欲しい本を探す。初版の第一刷があったから嬉しかった。別に何刷でも変わらないのになぜか最初を求めてしまう。最初が欲しい理由なんていつだって下らないと知っているけどやめられない。

最後の1冊を手に取って会計を済ませた。

それから文具屋と楽器屋に寄ったけれど、欲しいペンは高かったし、欲しい弦も特にないから何も買わずに帰った。

帰りの電車内で、大きな声が聞こえたから気にしていると老夫婦が話していた。声の大きさではなく、態度に品がないと思った。彼らの空気感は異様だった。忘れないようにどうにか言葉に残して、読書の続きをした。

帰宅して、ゴミを捨てて、風呂まで終えた。出費が少し多かったけれど、そこまでではなかったし、その分濃くて充実した日だった。

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