ここにある生活とデペイズマン。

まるで歌詞の聞き取れない音楽に夢中になっている。これまで日本語に固執してきたのはなんだったんだ。日本語なんだけど崩して聞き取れないものと、外国語でそもそも聞き取れないものはそんなに違うだろうか。

側から見ればどっちも同じようなものかもしれないけれど、やっぱりなんとなく違う。言葉は空気を伝える。自分と同じ言語が生活に馴染んでいるからだ。つまり、日本語以外の生活を送ったことがない自分には、他の言語では生活が感じ取れない。

空気感は息遣いで色合いで価値観で、その時代を含んでいる。包んでいる。自分は表現にそういう何かぼんやりした時代感みたいなものを求めているらしい。そこから滲み出た普遍的な静けさや喧騒、寂しさを感じたいんだろう。

聞き取れない日本語と聞き取れる英語が入り混じった、破裂音の連続のような音楽を聞いていた。世界を破いていくような音だけど聞かずにはいられない。もうほとんど取り憑かれたようだ。

昼に起きてからずっとこの調子で何かに動かされているみたいに受け入れ続けている。音楽やラジオや料理や外気に思いを馳せている。

それと、暗くなる前に外に出るか迷い続けている。

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