教えるというのは自分勝手であってはならないのだ。

その文章だけが記憶から抜け落ちていた。体が半分浮いているような感覚でもっと書きたい。次の行が待ちきれなくて枠を文字が飛び出してしまうくらい興奮を持続させたい。

朝起きて読み返したら、朝起きた時読み返せるだろうか、と書かれていた。陶酔の最中でも見透かしていた。正しくは、微かにずっと思い続けていることなんだろう。

それから不意に、人間は19歳で人生の半分が終わるという誰かの論理を思い出した。それなら20歳から新しいことを始めて、知らない世界に飛び込めば大人も濃い時間を過ごせるのではと思った。

子供の頃の初めてに、地球で生きる上で学ぶ感覚の前提のようなことが多く含まれているならもう無理なのか。重力があるからこうやって立ってとか、ここに力を込めて歩くとか、誰が教えてくれるでもない感覚が何割を占めるだろうか。

世界中を旅する人は新しい価値観や知らなかったことをたくさん知れる。旅人みたいに生きられたら新しい経験が増えて、大人になっても濃い時間を過ごせるような気がした。

当たり前のような発見を持て余して、ぶら下げていた。

昼に食事をして、天気予報を見ていた。降るのか降らないのか、数日後は晴れるのか晴れないのか、見ていた。

これから降りそうだ。でも散歩に行きたい。濡れたって構わない。心臓がいつもより元気そうだ。でもそれは人間にとって元気じゃない。いつも通りがいちばん順調なんだ。たまには休ませてあげたいし、時には高鳴らせてあげたい。それは不調でそんな気まぐれが通用すれば肉体は全滅だ。なんだか変な感覚だった。

途中で止めていた映画を最後まで見て、それから音楽を聴いていた。ギターを弾いて、漫才を見ていた。

外に出るかと意気込むと扉の向こうから物音が聞こえてきて、そっと覗くと隣の人が引っ越してきたようだった。すれ違いたくはない。外に出る気は失せて、着替えた自分だけが残った。雨も降りそうだったし、散歩は明日にするか。改めて天気予報を見るとしばらく雨は降らないことになっていた。これもすぐに変わるだろうけれど、別に濡れたって構わないのだ。

久しぶりに湖で詩を書きたい。虫に刺されたくはない。濡れたって構わないけれど、濡れた地面に腰を下ろすのは躊躇するし、とにかく隣人と鉢合わせになりたくない。

もしかしたらこの後散歩に行くかもしれないし、行かないかもしれない。行けば気分は良いだろうし、行かなくてもそれなりの口実を浮かべて夜を迎えるだろう。

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