みんなみたいに普通に紛れれば認めてくれるのかな。

凄く嬉しい報せがあった。ただの報せ、まだ行方の分からないことだけど、それでも嬉しくて涙が出そうだった。あまりに身勝手だから今泣くべきじゃない。ただ今がちょっと感傷的なだけだ。

久しぶりにこんなに神様に祈った。こういう都合のいいやつの願いは蹴落とされるかもしれない。でもたまには救いようのない馬鹿も掬ってくれるかもしれないから自分は信じ続けたい。

いつだって信じるのは一方的だからもう慣れた。裏切られるのが怖くないなんて言えないけれど、裏切りの全ての責任は自らの過信にあるんだから仕方ない。勝手に期待したせいでしかない。跳ね返りの熱は一旦忘れたふりをして、素直に馬鹿正直に信じる。それが信頼であり好意の表現だと思うから、痛みさえ伴う忘却を無理矢理に行う。

この興奮はついさっきの出来事で、その瞬間、朝からの暑さへの憎悪は吹き飛んだ。なんでも許すから、これが最後の願いでもいいから、これだけ叶えてとか言ってしまいそうなほど浮かれている。

起床後の暑さを再び感じればそんな願いは簡単に吹き飛ぶかもしれない。でも今の気持ちが本当なのは確かで、いろんなことがどうでも良くなる。

何をすれば一生懸命生きていると言えるだろうか。どう動けばこの健気な気持ちを認めてくれるだろうか。まずは怠惰をやめたい。やめよう。やりたいことをちゃんとしよう。やりたいことなのに、こうして頻繁に決意し直さないと気持ちが薄れてしまう。手を付けていないことさえ気づけなくなって、そのうちやりたかった気持ちさえ消えてしまいそうで怖い。

今日書きたかったことは全部忘れた。書き留めたことはいつかまた書こう。

夕方買い物へ行って、食べ物を買った。果物は高かったから買わなかった。帰り道、ベンチで詩を書いたら雨が降り出したから自転車を飛ばして帰った。帰宅後、明日の支度をしていた。大切な人は喜ばせたいし、大切な人には大切だって伝えられたらいいと思った。

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