混濁した夜、咲くというより散るように。
昨夜はなんだか夢みたいだった。帰宅して風呂に入って、音楽を聴いていたらだんだん実感してきて幸せだったなと思った。
幸せは相対的で、瞬間に感じるものだから、あの公園での時間は今より確かに幸せだった。その柔らかい緊張感を絶対という言葉に閉じ込めておけることが嬉しい。
ある言葉を読んだ時や、ある数字を見た時に特定の何かを思い出すように、この曲を聴いて今日のことを思い出せたら良いと思った。
それから寝たのは何時だっただろう。外が明るくなっていたような気もするし、まだ真っ暗だったような気もする。
深夜にそっと窓の向こうを見ると、ちょうど正面に月が見えた。半分くらい満たされていて、半分くらい空っぽだった。
今日起きたのは昼過ぎで、パンを食べて、無駄な時間を過ごしていた。本を読んだ。数年しか経っていないのに、彼の書く文章は静かになっていた。今の方が技量が必要なのは分かるけれど、個人的にはあのころの激しさや粗さが好きなんだ。あの文章はもう読めないのかな。
音楽は初期の方が良かったとかあまり思わないのにな。音楽は曲が点で、小説は本が線で繋がる。文章はジャンルを変えなければ変化が分かりやすいから気になるのかもしれない。どうなろうと好きだからきっと読み続けるんだろう。
変わっても離れないのは怖いくらいに優しい。優しさに見せかけた恐怖にもなる。そのくらいの純度で盲目になってみたい。
日が暮れる前、外に出た。いつかの強風で自転車置き場が荒れていた。自分はいつもタイヤを輪止めにぐいっと入れ込む。風で倒されたくないという意思を持って奥まで入れる。
でもここの人はただ停めるだけだから、自分の自転車に向かって数台の自転車が倒れていた。歪んでいなかったから良かったけれど、自分の自転車にその数台分の重みがかかっているから端から元に戻さなくてはいけなかった。毎回こうならないように心掛けているほうが、こうなったときに気づかれない気を配らないといけないなんて変だ。
苛立ちを抱えて自転車を漕ぐ。急ぎの用はないのに外に出たかった。風を浴びていたらだんだんと苛立ちは解けて散った。
道端で猫が寝ていた。伸びていた。
数軒店を回って、日用品などを買って、古本屋に行った。日はもう暮れていた。
もう駄目だ、と、もう大丈夫だから、が、左右の耳に流れ込む。店内の音楽と、イヤフォンから流す音楽が半分半分せめぎ合っていた。本は何も買わなかった。
自然と人に好かれる人たちのことを思いながら帰った。彼らは、他人がどれだけその気持ちや関係を欲しているかなんて気にしたこともないのだろう。みんな簡単に手に入れられるものなのかもしれない。
算数が分からない子の苦悩はきっとこんな感じだったのだろう。まだ幼いころからこんな気持ちを抱えていたなら、諦めるのも割り切るのも上手になるだろう。中途半端に器用なのは、全てにおいて不得意なのと同じだから、それならせめて何かひとつくらい与えてくれても良いじゃないか。
自分も実はそういう何かがあるのだろうか。当たり前になってしまって気付けない才があるのだろうか。それならせめて気づかせてくれても良いじゃないか。
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