内なるマイノリティと「らしさ」の展示 ー吉原直樹「ポスト3・11の地層から-いまコミュニティを問うことの意味」

平たくいうと、文化=「文化的なもの」を取り込むことによって、帰属意識・忠誠心、そして連帯に基づくナショナリティを蘇らせようとするのが、リベラル・ナショナリズムなのである。こういうと、リベラル・ナショナリズムは古い「共助」の伝統を主内容とする「文化的なもの」の復権/擁護を唱えるコミュニタリアニズムの単なる焼き直しのようにみえる。しかし、リベラル・ナショナリズムの核心部分をなすネーションは、二つの「他者」を包合している。すなわち「内なるマイノリティ」(日本のネーションとかドイツのネーションなどに包摂されないもの)と「外なる隣接するネーション」(ネーションの外に隣接する他のネーション)に向き合っているのである(富沢2012,p22)。

吉原直樹「ポスト3・11の地層から-いまコミュニティを問うことの意味」伊豫谷登士翁、齋藤純一、吉原直樹著『コミュニティを再考する』p104


 「日本らしさ」「京都らしさ」という文化的なものでもって、帰属意識を高めることって戦前の愛国心や愛郷心といったものを涵養する郷土教育に似ている。

 しかし、結や講といった「共助」の伝統をもった「文化的なもの」の復権をとなえるコミュニタリアニズムとは異なるという。

 それは、「内なるマイノリティ」と「外なる隣接するネーション」という「他者」の存在によって異なる。

 つまり、内部が多元的であり、外にひらかれているのだと、「日本らしさ」「京都らしさ」が度合いの問題であり、日本(京都)だけで完結している問題ではないという立場がリベラル・ナショナリズムであろう。

 展示をしていると、無意識のうちに「〇〇らしさ(例えば「むかしのくらしらしさ」)」を強調しがち(わかりやすく示すためでもある)だが、「〇〇らしさ」を示すことにより、帰属意識を高めたいのか、「〇〇らしさ」を復権させたいのか、「〇〇らしい」と思えない人はそのなかに含まれているのか、それとも対外的に「〇〇らしい」ことのPRをしたいだけなのか、考えるヒントになる・・・?


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