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与野の大カヤと中世の仏教説話、そして鎌倉新仏教と火山の超巨大噴火…世界はつながっている!


↑の画像は埼玉県さいたま市中央区にある「与野の大カヤ」。樹高が21.5メートル、樹齢1000年とも言われる関東屈指の巨樹です。

与野。旧埼玉県与野市。かつては不倶戴天の敵同士、現在はさいたま市で呉越同舟のライバル関係にある大宮エリアと浦和エリアのちょっど中間にあるエリアです。これらはいずれも2001年の大合併で「さいたま市」に。

さいたま市の誕生の際にはよく浦和と大宮が合併できたよなぁ~と驚いたものですが、それも間に入った与野市の存在が大きかったのかも知れません。異なるものを結びつける接着剤のような役回りだったのでしょうか。あるいはバンド内で仲の悪いヴォーカリストとギタリストの間を取り持つベーシストか、はたまた水と油を混ぜ合わせる界面活性剤か?

しかしそんな大合併の功労者だったにも関わらずさいたま市の誕生によって与野市の地名が「中央区」に変更、「与野」の地名が消滅してしまいました。(駅名や学校名などでまだかろうじて残っていますが)

位置的にはこの巨樹から東に行くと浦和レッドダイヤモンズの本拠地のひとつ浦和駒場スタジアム、北に同じくらいの距離を行くとさいたまスーパーアリーナって感じ…って埼玉の土地勘ないとわからない?😆 さいたまスーパーアリーナは大宮のイメージもありますが、実際には中央区、つまり旧与野市のエリアです。

この巨樹には↓のような金毘羅信仰に関わる伝説もあります。

これが金毘羅天堂

それにしても見事なお姿。1000年を経ても、周囲がコンクリートジャングルになってしまっても(苦笑)、まだまだ元気です。全体のバランス、プロポーションも美しいうえに「いい感じに年を重ねている」印象(とくに根本近くの幹あたり)も伝わってくる素晴らしい樹です。

群馬県の前橋市にある「横室の大カヤ」、静岡県の浜松市にある「北浜の大カヤノキ」と並んで「日本三大カヤ」と呼ばれることもあるそうです。もっともこの手の「三大◯◯」は候補が3つ以上あって人によってラインナップが異なるケースが圧倒的に多いのですが。

もともとこの与野エリアは↓の説明板にあるように市が立てられるなど非常に繁栄していた場所だったそうです。何しろ明治初期くらいまでは浦和や大宮と町としての規模はほとんど変わらなかったとか。しかしその後鉄道をはじめとした近代的な開発がはじまると浦和・大宮に大きく水を開けられる形となり…

でもそのおかけでこの巨樹も生き残ることができたのかもしれません。

そんな与野エリアですが、もうひとつ、中世まで遡る面白い伝説(仏教説話)が残されています。金毘羅信仰の伝説はちょっと真面目すぎてそのありがたさに涙することはあってもエンターテイメントとして楽しむのはちょっと難しい面もありますが😆、こちらの伝説は妖怪変化の類も登場するなかなかに面白い内容です。しかもビジュアルつき!

これは「融通縁起絵巻」と呼ばれる14世紀初頭(1314年が有力)に制作されたとされる絵巻物に登場する話です。この絵巻物は良忍(1073-1132)という融通念仏宗(大阪の大念仏寺が総本山)を開いた僧の事績が描かれているほか、念仏のありがたみ、功徳を伝える内容も見られます。与野を舞台にした伝説はそんな後者のパターン。

この融通念仏絵巻、原本は失われてしまっているのですが、もっとも古いとされる写本がアメリカのクリーブランド美術館に所蔵されています。しかもありがたいことにこの美術館の公式サイトから絵巻物全体を見ることができます。

↓のサイト。英語ですが怪しいサイトではありません。美術館の公式サイトです。こうした文化財の公開は海外のほうが進んでいるみたいですねぇ。

伝説に該当する部分だけちょっとキャプチャーしてみました。

ちゃんと「武蔵国与野乃郷」と「与野」の地名が登場しています(朱線はわたしが引きました)。こんな歴史のある名前をあっさり消滅させてしまうあたり、やはり平成の大合併には問題があるといわざるを得ませんねぇ。

↓これが妖怪(疫神)が登場するシーン

これは中世の絵巻物全般に共通した特徴のようですが、人間の姿の描写はどれも没個性でみんな同じような顔をしている一方で妖怪の容貌はどれひとつとして同じものがなくみな個性豊か。この絵巻物でも描いた絵師の並々ならぬこだわりがうかがえるようです。

こうした「絵巻物における約束事」みたいなものがあったのでしょうか?「人間の描写はどうでもいい、しかし妖怪変化の類の描写は決しておろそかにするな」みたいな。昔の人たちの価値観と優先順位がどうもよくわからんのですが(笑)

しかしこの絵巻物の化け物たち、とても面白いですねぇ。なんでもこの手の妖怪がたくさん描かれる「百鬼夜行」系の絵画ではこれがもっと古い例らしい。

ということはビジュアル面における百鬼夜行のルーツは京都ではなく埼玉だったのだ!…というのはさすがにちょっと無理がありますか。

この妖怪が出てくる部分の話の内容はと言いますと…

鎌倉時代の正嘉年間(1257-1259)、世には疫病が流行していた。そんななか、武蔵国与野郷に念仏信仰に熱心な名主がいた。彼は本人が信仰を捧げるのみならず周囲の人たちにも念仏を熱心に勧めており、一緒に念仏を唱えていた人たちの名簿(番帳:念仏信者の名簿)を作成していた。

そんなある夜、彼の夢の中で多数の異形の疫神が彼の屋敷に押しかけてきた。彼はその疫神らに念仏を信仰している者たちの名を記した名簿を見せると、彼らはその名簿の名前のところに次々と判を押しはじめた。

名主には別の地に嫁いだ娘がおり、離れて住んでいることもあってこの名簿には名前を載せていなかったのだが、疫神たちの様子を見て彼らに娘の名前を加えさせてくれないかと頼みこんでみた。が疫神たちはそれを受け入れようとはしなかった。

夢から覚めて名簿を確認した名主はまさに夢の通りに名前のところに判が押されているのを見つけたのだった。

そしてその後、名前に判が押された人たちは疫病の被害から免れることができた一方、名前を加えることを許されなかった名主の娘は疫病にかかって死んでしまったのだった。

念仏を唱えるといいことありますよ、という教訓話ですね。この正嘉(しょうか)年間には実際に全国で疫病が流行しているうえに、与野郷という実在していた地名が登場していることからして当時この地域に実際に念仏信仰に熱心な名主と信者たちがいたのではないか?とも言われています。

正嘉年間は今から約770年ほど前の話、そして与野の大カヤは樹齢1000年と考えられていますから、この巨樹は当時疫病がこの地に流行し、その災から逃れることを願って人々が熱心に念仏を唱えていた様子を見届けていたことになる…かもしれない。

巨樹を通して歴史と伝承が交わる瞬間、でしょうか。こうした自然・伝承・人間の歴史を結びつける面を持ち合わせているのも巨樹の魅力なのでしょう。

正嘉年間は鎌倉時代、鎌倉幕府における北条氏の支配を盤石なものにした北条時頼の時代ですが、一方で海外を見るとモンゴルによる本格的な侵攻が開始される時期(翌年にバクダード陥落、アッバース朝が滅亡)。

そんな時期に日本国内では疫病が流行して人々の生活が脅かされていたわけですが、どうしてこんな仏教説話が作られるほどこの時期に疫病が流行したのか?

どうやらその理由が特定できそうです。

1257年、インドネシアのサマラス火山が大噴火。どれだけすごかったかというと噴火によって大規模な山体崩壊が発生したらしい。

↓はこの噴火に関するナショナル・ジオグラフィックのページ。過去3700年間で最大規模の噴火と見られています。

散々暴れて周りに迷惑をかけたうえに自分自身をも破壊する…火山とはじつにROCKであると言わざるを得ません。

この年に地球上のどこかで大規模な噴火が起こったことは以前から知られていたものの、具体的にどの火山かはわからなかったそうですが、10年ほど前(このナショナル・ジオグラフィックの記事はちょうど10年前)にインドネシアのサマラス(Samalas)山と特定できたようです。記事にあるように噴火は1257年の5-10月の間らしい。

当記事には研究者による「この噴火から少なくとも2年間は、気候に影響があった」との解説が見られますが、その2年間とはまさに正嘉年間と重なります。さらにこの噴火の影響で世界中で「夏が来なかった」とか。

天候不順、気温の低下によるウイルスの拡散、作物の不作、栄養不足、太陽光の不足と栄養不足による免疫力の低下…噴火がもたらした影響が疫病流行のきっかけになったと見て問題ないと思います。

日本ではこの年に相模湾を震源地とする「正嘉地震」が発生、まさに弱り目に祟り目、これも当時の人々に大きな苦しみをもたらしたはずですが…この地震が発生したのが(グレゴリウス暦で)1257年の8月ころらしい。そうなると地殻変動におけるサマラス山とこの地震との関係もちょっと気になってきます。

さらにもうひとつ、この時期は日蓮が積極的な布教活動を展開していた時期、しかも彼は災害や疫病、飢饉など世の不穏な情勢を自らの理念と結びつけて布教活動を行っていました。そうなるとサマラス山の噴火をきっかけとした世の不穏な状況が鎌倉新仏教とも関わってくる可能性も出てきます。

いや~壮大な話しですね。この「融通縁起絵巻」における与野郷のエピソードは歴史、伝承、信仰、人々の生活、そして自然現象が見事に一致するとても面白い例となるのではないでしょうか?

金比羅神社の伝説に登場する妙行寺(しかも日蓮宗!)は現在でもこの巨樹のすぐ近くにあり、境内には樹齢約600年とも言われるモッコクの樹もあります。↓

こちらは一時期かなり樹勢が衰えていたらしく、ちょっと痛々しい面も見られますが、まだ長生きしてくれそうです。



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