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短編小説 「龍の間にて –-At the Dragon Floor」

 刺客が領主の居城への潜入に成功していた。暗殺のために。

 今彼は領主の間の四方を囲む回廊のとば口で柱の影に身を潜めている。階段を登ってこの階に達してから一本道の廊下を辿ってここまで来た。このとば口はその廊下から直角に曲がる形で回廊に入る位置にあり、回廊の一辺の外側で並行に走っている形だ。ほかに回廊に出入りできる場所はない。

そして今彼が足を踏み入れようとしているこの回廊は事前に入手していた情報と違わず高い天井と高い位置に渡された梁を持っており、領主がいる部屋へとたどり着くためにはどうしても床の上を進まねばならないらしい。

これまでにもこの領主のもとへは多くの敵から幾度となく刺客が差し向けられていたのだが、そのことごとくが失敗、刺客はみな行方知れずとなっていた。その中には手練れの者もいたに違いない。それでもなおすべてが失敗しているからには何らかの秘密が隠されていると考えるべきだろう。例えば刺客が立つこの場所から領主の間までの間に。多くの敵を抱えていることを自覚している領主が万全の備えをしているであろうと考えるのはごく当然のことだ。

単に優れた使い手の護衛を揃えているだけではあるまい。人による護衛には必ずつけいる隙があるものだ。一人の人間が二六時中目を光らせることはできないし、護衛のすべてが申し分なく優秀ということは滅多にない、また人間にはつねに誘惑に屈しやすい弱さを抱えているものだ。過去の刺客がすべて失敗しているからにはそのような隙がない、恐ろしい罠のようなものがあると推測できるのだ。

 時はすでに夜、城内は半ば眠りにつきつつある。刺客はこれまで城の堀を越え、石垣を登り、番卒の目をかいくぐってこの廊下のとば口にまでたどり着くことに成功していた。彼が熟練の刺客だというのもあったが、潜入そのものもそれほど難しくなかった。これもここから先に何か罠が潜んでいると考える有力な根拠だ。本番はここからだ、と。

この回廊に関して事前に有益な情報は得られていなかった。何しろ差し向けられた刺客は誰一人として戻ってきていないのだし、内通者を得ることにも成功していなかった。領主の寝室と控えの間の周囲をぐるりと取り囲んでいるうえにその空間への出入り口がひとつしかない、という造りは少々変わっているが、それにも何らかの意味があるのだろう。

ただ乏しい情報からはこの廊下が「龍の間」と呼ばれていることが明らかになっており、刺客は廊下の名称としては少々不釣り合いな印象も抱いていた。廊下なのに「間」?いや、そうした表現があってもおかしくはない、しかしなぜ龍なのか?

そこで刺客はこの廊下がいわゆる「鶯張り」の構造をしているのではないかと見ていた。つまり廊下を歩くと音が鳴り不審者の存在を告げるものだ。ほかに考えられる罠は思いつかない。

しかし刺客にはその罠に対する備えがあった。彼には生まれつきの素質と厳しい修行によって身につけた常人離れした手足の鋭敏な感覚があり、床を少し触れただけでも何か罠が仕掛けられていないか、音が鳴らないかどうかを判断できた。さらに床のどこを踏めば音を鳴らさずに進んでいけるかを判断する自信もあったし、実際にこれまで過去に鶯張りの廊下を突破して暗殺や諜報活動を成功させてきた実績もあったのだ。

 かくして今刺客は罠が仕掛けられている可能性が高い回廊へのとば口の物陰に身を潜めて様子をうかがっていたのだが、その心中に困惑をよぎらせていた。ついさっきまで小姓や女中が領主の就寝の準備をしていたのだろう、廊下を行き来する様子を見る機会があった。のだが、鶯張りのような音はまったく鳴らなかった。今は人の行き来も絶えて静寂が広がっているなか、物陰に潜んでいる位置から見る限りでもごく普通の廊下といったところで不審な点は何も見られない。

いったいどういうことだ? 不審を抱きつつ刺客はさらに城内全体が眠りに就くときを待つ。いかなる秘密が潜んでいるのか? それともこの回廊には秘密などなく、領主が眠る部屋か控えの間で何か待ち構えているのか? しかしならどうして領主の間を回廊が取り囲むような奇妙な構造をしているのか? やはりこの廊下にはなにか秘密が隠されているのではないか?

 さらに時間が経過し、城内の明かりが次々と消されていよいよ城内が眠りにつこうとしていた。すでに領主のそばに詰める者たちのほかはすべて出払っており回廊には静寂がたれこめており、領主の間とその控えの間でもかすかな明かりが灯されているのみなのだろう、刺客の位置からは確認することはできない。

 そんなところへかすかな足音が聞こえてきた。

まずは階段を登る音、次いで刺客がここに至るまで辿ってきた一本道の廊下を歩く音。考えるまでもなく回廊、「龍の間」へと向かおうとしている。当然のことながら刺客が身を潜めている回廊へのとば口を通り抜けることを意味しており、彼は緊張を高めた。

足音は三人分、うまくやりすごせればそれでよし、そうでなければ…刺客は左肩に下げた忍刀の柄へと手を伸ばす。

手燭だけのわずかな明かりだけを頼りに進むその一行は水干姿の若い娘たちだった。その出で立ちは神に使える巫女を連想させる。刺客の緊張をよそに進み続ける一行は彼の存在に気づく様子も見せずに彼が身を潜める柱のすぐ脇を通り過ぎ、「龍の間」へと足を踏み入れていった。

いったい何をするつもりだ? 刺客がとば口から顔を覗かせて様子をうかがっている間に一行は回廊を領主の間の方へと進んでいく。厄祓いでもするつもりか?

さらに歩み続けていると三人の娘はふと回廊の途中で揃って立ち止まった。そして手燭を床に置き、姿勢を正して直立した。闇の中で何をしようとしているのかまでは刺客の位置からは詳しく見ていることはできなかったが…

ぱん、ぱん

音が鳴り響いた。柏手だ。そしてその音には反響が伴う。単に柏手が反響したものだけでなく、何か別の音が応答したかのような不思議な印象をもたらす反響が。離れた位置にいる刺客でさえそう感じたくらいなのだからその場にいる三人の娘にはなおのことだろう。

鳴龍か。刺客は察しとった。天井に特殊な凹凸が施されており、そこに描かれた龍の下で柏手を打つと不思議な反響が生じるというもので、その反響を龍が祈りに応えたとみなされるのだ。

つまりこれが「龍の間」と呼ばれる理由か。刺客は拍子抜けしたような気分を味わった。謎めいた部分など何もない。この廊下には本当に罠の類はない、ということなのか?

巫女たちは一礼すると床においた手燭を手に取り、さらに廊下を先に進みはじめた。角を右に曲がり、刺客の視界から消えるとかすかな足音だけが聞こえる状況がしばし続く。彼女たちがこの廊下に罠など何も仕掛けられていないことを証明しているかのようだ。

ぱん、ぱん

しばらく経つと再び柏手が響いた。刺客の位置からでは特殊な反響を聞き取ることはできないが、回廊の反対側にも鳴龍があるということか?

再び足音が聞こえてきたかと思うと手燭の明かりが刺客の視界に入ってきた。回廊をぐるりとまわって反対方向の廊下から戻ってきたのだ。どうやらこれで巫女たちの用事は済んだらしい。そのまま刺客のすぐ脇を通り抜けて回廊から通路に入り、階段を下りてこの階から立ち去っていった。

 これを最後に本当に城内が眠りについたようだった。刺客は一瞬だけ判断に迷った。結局のところ自分と領主の前にいかなる危険や罠、障害が立ちはだかっているのかはわからぬままなのだ。

事情が分からぬ、そして自身も今のところいかなる危険も察知していない。ならば進むべきだろう、と彼は判断した。刺客なら危険に身を晒すのを避けるべきではないし、危険を察知していないのなら実際にそのようなものはない可能性もあるし、進んでいる途中で危険が迫れば察知することができるはずだ。頼りにするのは己れのみ、これが刺客の大原則なのだ。

最後に改めて周囲を確認し、何者の気配も、危険もないことを確認すると慎重に「龍の間」へと足を踏み出した。

 聴覚、触覚。常人離れした感覚を駆使して慎重に進んでいく。やや前かがみに闇に身を潜め、音を立てずに。何も起こらない、何もない。やはり巫女たちが証明してくれたように罠は見受けられない。さらにこの回廊に護衛の類がどこかに潜んでいるといった状況も考えにくかった。やはり危険があるとすれば領主の間に入ってから、それだけ手練れの護衛が控えているということなのか?

慎重な姿勢を崩すことなくさらに先に進み続けていると踏み出した右の足先が何かを感じ取った。かすかな、振動のようなものが床から伝わってくる。

床が揺れているのか? 前かがみの姿勢から右手を床にあてて確かめようとしたが…

 床に触れる前にその指先が振動を感じ取った。空気の揺れを。

空気の揺れ? 床が揺れるほどのものなら風の音でも聞こえそうなものだが…耳を澄ましてみたところでかすかな音さえも聞こえず、城が依然として眠りについていることを証明するだけだった。

しばし動きを止めて様子をうかがったが、何も起こる気配はない。改めて、しゃがみこんだ姿勢で指先を前方に伸ばしながら慎重に歩を進める。が、二歩ほど進んだところで手と足の両方の指先に再び震えを感じた。それもより強く、立て続けに。

その振動は床から彼の足先を通して脚へとかけのぼり、空気中から指先を通して腕をつたい、そしてその両者が背筋を通って全身へと駆け巡っていった。それはもはや振動というよりも衝撃に近い。落雷と遭遇したらこうなるのか、と思わせるほどだ。

しかも衝撃が去ってもなお体に余韻が残り続けていた。いや、余韻ではない、なおも振動が全身へと伝い続けているらしい。床から、そして周囲の空気からも。

聞こえない音が空気を震わせ、床を揺らし続けている、としか考えられない。刺客には、いや人間には聞き取れないような音なのか?

ここで刺客は「鳴龍」のことを思い出した。あの鳴龍の不思議な残響か? あの時巫女たちが柏手で鳴らした音の残業が今も響き続けているのか? 人間の耳には聞こえない形で? そんなことが起こりえるのか?

夢想めいた考えを弄んでいるような気がしていたが、ふと彼は今自分がいる地点に意識を向けた。そういえば巫女たちが柏手を打ったのはこのあたりではなかったか?

見上げてみた。闇に包まれ、普通の廊下よりも高い位置にある天井の様子を見て取れるはずもない…はずだった。しかし彼は闇の中で何かが「いる」、そしてうごめいているのを見て取った。いや、感じ取ったと表現したほうが適切だろう。

伝わってくる振動はこの「何か」が空気を揺らしているのか、それとも人間には聞こえないうなり声を上げているのか?

その「何か」を龍と結びつけて考えるのはごく自然な流れなのだろう。龍が唸っている? あるいは吼えている? しかし彼はさらに考えが夢想めいていくのを戒めた。刺客とはあくまで現実的に、冷徹に行動するべきだ。今自分に危険をもたらすようなものは見当たらないし、この振動は進行の妨げになるようなものではない。刺客は自らに言い聞かせつつ歩を進めようとした。しかし…

 右足を一歩踏み出すなりすさまじい衝撃が頭頂から足の指先にかけて一気に走り、全身を貫いた。そしてその衝撃が伝わったのか床の揺れが増す。まさに落雷を受けるとはこういうことか、などと考えを巡らせつつ全身が痺れたように身動きがとれなくなったまま立ち尽くした。

かろうじて顔を下へ向けて床を見る。一歩踏み出したまま固まっている自らの右足を。

俺は越えてはならない一線を越えてしまったのか? 今味わっているものがこれまで数多くの刺客を退けてきた秘密なのか? しかしいまだにその秘密が何なのかわかっていない。何が起こったんだ? 何が起こっているんだ?

すると頭上で気配とも、空気の振動ともとれるものが伝わってくるとともに「それ」が刺客へと向かって下りてきたのを感じた。確認するべく顔を上げようとするがわずかに上へと傾くのみ、その間にも「それ」が背後をかすめるようにして動くのを肌でありありと感じて全身を総毛立たせる。しかしそれはごく短い間に過ぎずその感覚は「それ」の気配とともに薄れ、消えていった。どうやら「何か」は背後へと遠ざかっていったらしい。

 危険は去ったのか? 希望めいた考えを脳裏をよぎらせた刺客だったが、痺れた体はなおも身動きできぬ状態から回復しようとせず振り返って確認することもできない。そして床からは、いや、彼の周囲全体から振動とも衝撃とも言えるものが今もなおビリビリと肌に伝わり続けている。そして何より彼の刺客としての豊富な経験によって磨き上げられた感性が危険を伝えてきていた。まだだ、まだ何かが起こる。それも危険なことが。

 せめてなんとかして体を動せる状態にしようと苦闘していると視界に、右手前方の回廊の曲がり角から何かが姿を現したのを見た。闇の中ゆえ視覚ではその姿をしかと見て取ることはできなかったが、無意識のうちに他の感覚が研ぎ澄まされて視覚で不足しているものを補おうとしはじめる。鼓膜と肌で感じる振動、そして近づいてくる気配…

巨大な何かがゆっくりと、悠然と近づいてくる。そしてそれが眼前にまで迫ったとき、ようやく彼はすべてを悟った。

 これは龍だ。天井から現れた龍が回廊をぐるりと回ってこちらへやってくる。何のために? もちろん侵入者を排除するためだ。

ではこれがこれまで刺客たちをことごとく葬り去ってきた秘密か、そして「龍の間」の名前と、この回廊の構造の正体か。さっき三人の巫女が柏手をしたのは天井の龍を目覚めさせるためだったのだ。体を動かせずにいるのは振動に込められている龍の神秘的な力に絡め取られてしまったからだろうか。

回廊の反対側を回って進めばこの危険を避けることができたのだろうか? いや、巫女たちは回廊の反対側でも柏手を打っていた。そちらの鳴龍が抜け出てくるだけの違いだったに違いない。ということはこの「龍の間」には龍が二頭いるということか?それとも二か所の天井に描かれている龍はどちらも同じもので、抜け出てくる場所が違うだけの話なのか?

待て、俺は今龍をまるで実在しているように考えているぞ。天井から抜き出てきた龍が人間に襲いかかる? これまで巡らせてきたなかでももっとも馬鹿げた夢想じゃないか? そんな理性の声も脳裏によぎったが、容赦なく迫ってくる龍の姿と圧倒的な現実がそれを瞬時に押し流していく。

 これら脳裏を駆け巡る考えは走馬灯のごときものだったのかもしれない。龍の姿を認めてから眼前に迫るまでのほんのわずかな間に目まぐるしく駆け巡った。そしていよいよ進退窮まる段になってふと天井は今どうなっているのだろう? と少々場違いにも思える疑問が刺客の脳裏をよぎった。龍はいなくなっているのか?

しかし確認している余裕はなかった。眼前で顎(あぎと)を大きく開いた龍から目を背けるようになんとか頭部を上へと持ち上げようとしたところでその開いた口が彼を飲み込んだ。

 その瞬間、刺客は視界を完全な闇に奪われつつ自分が「持っていかれる」ように感じた。空へと連れ去られる浮遊感と、大事なものを持ち去られてしまった喪失感の両方を味わいながら。

少し間の後、彼は何が起こったのかを悟った。龍に「魂を喰われた」のだ。魂が体から引き離され、どこかへと連れ去られようとしている。連れ去られる魂は浮遊し、体から引き剥がされた喪失感を味わっているのだ。しかし次第に喪失感は薄れていく。肉体との結びつきが失われているのだ。

どこへ連れ去られるのだ? 視界は開けず、示唆するものは何もない。それは人智を超えた領域なのか?

 しかしやがて何かを感じはじめた。自分が向かう、または連れ去られようとしている先に待ち構えている世界を。

それは虚無の空間への落とし穴か、それとも永遠の世界へのとば口か。どうやらその見極めは人知の及ばぬところらしい。たどり着いて初めてわかるものなのだろう。

もはや刺客には恐怖も期待もなかった。単にああ、これで俺の生はここで終わるのか、との冷めた考えがよぎるのみ。それは過酷な世界で生きてきた者ならではの達観した姿勢なのか、それとも人は己れの死と向き合うときにはこうした境地に至るものなのか?

そして刺客はその待ち構えている世界への入り口にまで達し、龍に連れ去られるまま、あるいは導かれるまま通り抜け、去っていった。

 翌朝、朝の支度をする使用人が「龍の間」で倒れている刺客の遺体を発見した。しかしそれが大きな騒ぎになることはなく、まるで珍しいことでもないとばかりに速やかに遺体が片付けられていった。そして最後に神職と巫女が御幣などの神具を「龍の間」に持ち込んだうえで刺客の遺体があった場所、つまり龍の絵が描かれている天井の下で簡素な儀式を執り行った。

僧侶ではなく神職、つまりこれは死者の冥福を祈るためのものではなく、死の「ケガレ」を祓うためのものだ。

そして儀式の最後に神職と巫女一同が揃って柏手を打った。その音が「龍の間」に響き、不思議な反響をもたらす。あたかも天井の龍が相応じたかのように。



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