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ピアノコンクールでは何が問われているのか ― 岡目八目コンクール論

ご承知の通り、最近の私どもの活動の一つが、各種審査用動画・音源の収録です。今週も、コンクール用の動画撮影の予定が幾つかあります。

そうなるとつい考えてしまうことがあります。コンクールってどういうもの?

特に、私どものところでは、これから音楽の世界で生きて行こうという方々が受けられるコンクールの収録依頼が多いのです。こういう方々は、コンクールにこれからの音楽人生を賭けるということになるのだろうと思います。いわゆる、チャンスの獲得(リサイタル・留学・レコーディング・勉学資金等)をめざすケースも多いのではないでしょうか。

もちろん、それ以外のケースもいろいろあることでしょう。今どきのコンクールというのは、本当にいろいろな人々が参加するようになりました。その参加目的も人それぞれなのだろうと思います。学習のメルクマールとしてコンクールを位置づけている方も少なからずいらっしゃると思われます。

それはそれとして、私の周辺では、最近、人生賭けて…という場面に接することが多いので、どうしても考えてしまうことがありますね。

コンクールでは、いったい何が問われるのかな、ということ。

― ノーミスで弾くこと? でもある先生は、様式が大事って仰っていた。いやいや、やっぱり音色、という声も聞く。何が正解なの?

これまで、私が見聞きした感覚では、もちろんそれらも大切だけれど、もっと大切なことがあるように感じています。

以下は、岡目八目ではあるのですが、当事者のすぐそばで演奏を確認し、自分自身も長年ピアノを弾いてきたからこそ見えてくるポイントをご紹介したいと思います。なお、これは、あくまでも、これから音楽の世界で生きて行こうという方々が受けられるコンクールで要求されるであろう事項です。

それは以下の2点です。

・またぜひ聴きたいと思わせる演奏をするアーティストであるか?
・長い時間をかけて伝統と革新を経てきた音楽の分野において次代を担わせるにふさわしい人材であるかどうか?

要するに、問われているのは音楽家としての資質の部分ではないでしょうか。そう、各論ではなく、もっと本質的なところ。

もう少し具体的に考えてみましょうか。

もちろん、ミスタッチはない方がいい。ミスタッチも音楽的なダメージですから。ミスタッチは、もちろんゼロにするのは至難のワザではありますが、練習量が確保されれば基本的には減るはずです。むしろ、それだけ真摯に練習量を積んだ人の演奏だからこそ、聴いていて心地よいし、そういう人にこそ、これからの時代活躍してもらいたい、ということなのではないでしょうか。

また、演奏家の場合、伝統的な芸の継承という役割も担っていくことを期待されている、という観点からすれば、芸事における数々の技術やお約束が血肉となって身についていなければならないのは言うまでもないこと。だから、様式感やアーティキュレーションが問題になるのは、当然の帰結。

要するに、各論から入るのではなく、上に掲げた根本的な資質のようなところから考えていくと、全てが腑に落ちるのではないかと最近感じるのです。

もう少し例を挙げてみましょうか。例えば、ある人の演奏を聞いて、「ダイナミックな表現ではあるけれども、音色としては輝きが足りず、むしろ響きは美しくない」という印象が残ったのであれば、その人の演奏をもう一度聴きたいとは思わない可能性が高いですよね。あるいは、そういう人に、これからの音楽業界を背負って立ってほしいとも思わない。それよりは、美しい音が出せる人の演奏をもう一度聴きたいだろうし、その人にこそ、音の伝道師の役割を果たしてほしいと感じるのではないでしょうか。

ところで、ここで注意が要るかもしれないなと思うのは、「音色」という各論だけにフォーカスをあてると、ともすれば、「音さえ綺麗であればそれでいい」という「あれれな短絡思考」になりがちであるということ。美しい音色は、本当に全てのピアノ弾きにとって、究極の課題であることには違いないけれど、でも、「音色」だけが音楽を評価するポイントではないと思います。というのも、そこそこ美しい音を出せる人は、正直な話、初学者レベルでも存在していたりしますから。逆に、相当キャリアを積んだ人でも、その初学者の人が出せるような音が出せないケースも多々ありますから。でも、これから音楽で生きて行こうという方が、初学者レベルであっていいはずもなく、また美しい音が出せないようでは話にならないでしょうね。

あと、「またぜひ聴きたいと思わせる演奏」であるかどうかは、重要なポイントだけれども、それだけではやはり片手落ちなのではないかと感じます。特に、独りよがりな演奏をする人の場合は、多くはNG扱いになるのではないかと思われます。なぜなら、長い音楽の歴史に敬意を払いつつ、過去から未来へとバトンを受け渡す役割を期待されているのが演奏家だからです。作曲家がその曲に付託した曲の情感を一旦自分のものとしてしっかり咀嚼したうえで、演奏という形で伝えていくことこそ、演奏家の果たすべき重要な役割だと私は思います。ですから、「自分だけ良ければOK劇場」ではないのだろうと思います。作曲家から受け取ったメッセージを、自分の演奏を通じて、お客さまに届ける、その結果お客さまが感動する、その美しい連鎖を実現できるか ― 問われているのはそこではないのかな、と感じます。

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