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【百物語】自転車の悲劇

 その夜、雄一はぶらりとアパートを出て、自転車に乗った。
 明日は恋人の智美とデートだった。デートは彼女からのリクエストで、先週封切りになった話題の映画を観に行くことになっている。雄一はふとそれを思い出し、せっかくなので情報誌に目を通しておこうと自分の部屋の中を物色したのだが、あいにく--予想通りでもある--その手の雑誌が手元にある筈もなく、それならばと彼は近所のコンビニエンスストアへ立ち読みに行く事を思いついた。--どうせだから、“ぴあ”の一冊くらい買っておいてもいいだろう。ついでに飲み物も買ってくるか。そうそう、煙草も切れそうだし……
 そこで雄一はアパートを出て、自分の自転車に乗って夜の町を走り出した。
 彼のアパートから一番近いコンビニエンスストアへは、バス通りに出て右へ200メートルほど行ったところにある。彼は誰も歩いていない曲がりくねった路地を颯爽と自転車で抜けて、バス通りとぶつかる交差点へ出た。
 ここで彼は、幾分スピードを落とす。ここは時々交通事故が起きるので近所では有名な交差点だった。別に何ということもない、見晴らしが悪いわけでも、坂になっているわけでもない、片側二斜線づつのバス通りと街道の枝道が交差するごく普通の交差点である。それなのに、ここはどうした訳か時々大事故が起きてしまう。雄一がこの町に住むようになって一年ほどだが、既に少なくとも三回は事故が起きている。そして最近もまた事故が起きて誰か犠牲者が出たのだろう、横断歩道の片隅に花が供えてあるのが生々しい。
 雄一は夜目にも白く映える供えられた花を横目で眺めながら、一応左右を確認して交差点を右に曲がり、バス通りに出た。ここからだと随分先に、コンビニエンスストアの看板の明かりが見える。だが自転車ならあっという間だ。ほどなくして雄一はコンビニエンスストアの前に着いて、自転車を止めた。
 店の中は静かだった。客が一人もいない。そういえば、ここに来るまでも、誰にも会わなかった。雄一はふと腕時計を確認する。まだ夜十一時過ぎだ。誰かが歩いていてもおかしくない時間であるし、コンビニエンスストアだって、客がいない時間とは思えない。だが別にそれで困るわけでもない。かえって気兼ねがなくていいってものだ。雄一は特に気にするでもなく、雑誌のコーナーへ向かって、幾つかの情報誌を手にして明日観に行く映画の記事に目を通し始めた。何冊か斜め読みした挙げ句に納得した様子で雄一はその中の一冊を手にすると、ぐるっと店内を回ってソフトドリンクのペットボトルやスナック菓子を棚から取ってレジへ向かう。レジで煙草を頼み、会計を済ませて彼はコンビニエンスストアを後にした。
 買い物のビニール袋を無造作にカゴの中に放り込んで、雄一は自分のアパートへ戻るべく、再び自転車にまたがった。雄一は来た道をそのまま戻ろうと自転車の向きを変える。バス通りには相変わらず人が誰もいない。それまで全く気にもしなかったが、そういえば車すら一台も通る様子がない。こんな静かな夜は、珍しい。
 雄一は車道へ出て、堂々とバス通りのど真ん中を自転車で走り始めた。どうせ車も走っていないのだ。危ない事も、ありはしない。
 すっかりリラックスした様子で、雄一は鼻歌を歌いながら両手放しで自転車を走らせる。
 だが、コンビニエンスストアを出て幾らも走らないうちに、雄一の自転車に異変が起きた。
 前輪の部分に付いている、ヘッドライトが突然消えたのである。
 それは、電球が切れたとか、そういう消え方とは違う。何かまるで黒い布で一気に覆われたような--
 雄一は、驚いて自転車を止めた。おかしい。どうしたというのか。彼は自転車を降りて、ライトを見てみる。見たところ、異常はなさそうである。前輪を浮かせて発電機を回してみると、ぼんやりと明かりが点るのが分かった。
 --何だ、大丈夫じゃん。びっくりさせやがる。
 恐らく接触か何かが悪かったのだろう。雄一は安心して、もう一度自転車に乗ろうと、右足を持ち上げた。
 その時だった。
 ふいに、彼は左足に奇妙な違和感を覚えた。とっさに雄一の背中に冷たい物が走り抜け、全身が総毛立つ程のその感触に彼はその動きを止めて、その場に立ち尽くした。沸き上がる嫌な気分に押されるように、恐る恐る自分の足元に目を向ける。
 いや、目を向けるまでもなく、その感触が何なのか、雄一にはすぐに分かっていた。
 手だ。
 誰かの手が、自分の足首を掴んでいる。
 冷たい、ひんやりとした、だけど間違いなく柔らかくかつ力強い、しっかりした握力が彼の足を通して伝わってくる。
 だがまさかそんな筈はない。ここは車道のど真ん中なのだ。
 そして恐る恐る足元を見た雄一は、そこにあるはずもないものを発見した。アスファルトの路面から、青白く細い腕が一本生えているのだ。彼の足首を握っているのは、まさにその一本の腕だったのである。
「う……うわぁあああああああっ!」
 瞬時に彼の口から恐怖の叫び声が発せられた。同時に自由になる右足でその不思議な腕を踏み付ける。一度、二度、三度。そして左足に渾身の力を込めて掴まれた足を振りほどく。あまりの事に危うく自転車をひっくり返すところであったが、雄一はどうにかバランスを保って相手の腕が離れた瞬間に自転車に飛び乗った。
 後は一目散である。雄一は一心不乱に自転車のペダルをこぐ。そこに突然、背後から自動車のヘッドライトが迫って来た。車道を走っている彼の背後から、いつのまにか車が一台迫って来ている。彼は飛び上がらんばかりに驚いて、急いで歩道に寄って自動車をやり過ごし、そのまま少しよろけながら最初の路地を曲った。家に帰るならここは曲る場所ではない。だが、気が動転してしまった彼は、とにかくその場を離れる事しか思いつかなかったのだ。
 薄暗い路地に入って、雄一はなおも一心に自転車をこぎながら、先ほどの体験について考えてみる。
 --あれは、なんだったんだ。
 --手だった。誰かの、手だった。
 --いや、どうしてあんなところから手が生えてくるっていうんだ。
 --あんな、道路のど真ん中から。
 --まるで、よくある怪談そのものじゃないか。
 --一体、何だっていうんだ……
 幾つかの路地を曲ったところで、雄一は背後に気配を感じた。
 誰かが自転車をこいでいる。しゃーこ、しゃーこ、しゃーこ……
 その気配は彼のほんの直ぐ後ろから聞こえて来た。いつの間に人がそんな後ろに迫っていたのか、きっと考え事をしていたので気がつかなかったのだ。雄一は無意識のうちに後ろの人に道を譲ろうと、自転車を左に寄せた。
 しゃーこ、しゃーこ、しゃーこ……
 ところが、背後の気配はずっと後ろについたまま彼を追いこそうとはしない。訝しげに、雄一はちらと気配の方に振り返る。
 そして、雄一の全身を再び悪寒が襲った。
 ……そこには誰も、いないのである。
 雄一はそれが意味する物を瞬時に理解した。一気に自転車をこぐ足を速める。誰もいなかった、誰もいなかった、誰もいなかった……
 彼の脳裏に、先ほどの青白い腕が浮かぶ。あの腕の主が、追い掛けて来ている--そんなイメージがどうしても拭えない。いや、そればかりではない。背後から迫っているのだ、あの青白い腕をした“何か”が、自分の背後に迫っているのだ。
 --今にもあの無気味な腕が自分の肩を掴むのでは……
 雄一はパニックになりながら必死に自転車をこぎ続ける。デタラメに路地を曲り、背後からの気配を振り切ろうとスピードを上げる。
 しかし。
 背後からの音は全く変わらず一定のペースで自転車をこぎながら、彼の後ろに付き従って離れようとはしないのである。
 しゃーこ、しゃーこ、しゃーこ……
 雄一にはどうしたらいいのか分からない。理由のしれない恐怖に突き動かされ、姿の見えない気配に追い回されて、半べそをかきながら、ただひたすら自転車をこぎ続けるしかないのだ。
 目の前の路地を曲る。
 背後の気配も遅れる事なく付いてくる。
 急いで路地をまた一つ曲る。
 まだ背後からは気配が追い掛けてくる。
 もう一つ、路地を曲る。
 だが、それでも気配は追い縋ってくる。
 助けてくれ--誰か。誰でもいい!
 息を切らせながら雄一は、心の奥底で祈った。
 やがて、どこをどう走ったものか、雄一は何度目になるだろう、ある路地を曲った。
 すると--
 突然背後の気配が消えたのである。
 --あれ、どうした?
 静かな夜の住宅街。自分の自転車が走る音だけが、彼の耳に響いている。あれほどしつこかった背後の気配が、どこにもない事に、彼は気がついた。
 --やった! もしかして、振り切ったのか?!
 こわごわ背後を振り返ってみると、やはりそこには何もいない。音も気配もなにもかもが、嘘のように消え去っている。
 間違いない。
 --助かった……
 雄一はほっとして、肩の力を抜き、ペダルをこぐ足を緩める。そんな彼の視界の先に、ふいにちらと何かがかすめる。
 それは、あの交差点に供えられた白い花束であった。
 --あれ……俺いつの間に……
 そう思ったのもつかの間、何の前触れもなく。いきなり直ぐ右側からまばゆい光が彼の全身を捕らえ、そして、
 ドンっ!
 続けて大きな、鈍い音と同時に、雄一の全身を囲繞していた一切の抵抗が消え、激しい衝撃と共に彼の身体は軽やかに宙を舞う。雄一の意識は、そこで途切れた。

 雄一の自転車を弾き飛ばしたのは、青信号を通り抜けようとスピードを速めた4tトラックであった。まるで計ったような、絶妙のタイミングで二者は出合い頭に交差点の中央で遭遇した。飛ばされ宙を舞う雄一はもちろん、交差点に進入した運転手も、恐らく何が起こったのかを理解する間はなかっただろう。
 衝突から遅れて、トラックがたてる物凄い急ブレーキの音が静かな町に響き渡り、アスファルトを擦るタイヤが焦げた跡を残して止まった。彼の身体は衝撃で数メートルも飛ばされ、アスファルトの路面には頭から着地する。まさに放り出された人形のように無抵抗の態で路面に二度三度と転がる雄一。一目見て全身を強く打ち付けたのが分かる、絶望的な転がり方であった。すぐに辺りは彼のおびただしい出血で黒々と染まり、彼の買い物が四方に散乱する。
 もちろん、雄一はそれきりぴくりとも動こうとはしなかった。そして--路上に力なく横たわる雄一の足許では、何の偶然か、道端に供えられた花束がその一部始終を見つめていた。
 ……まるで何かを誘うように揺れながら。




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