カジノ設置に反対する
すでにカジノ法案は可決され、大阪などでは具体的に計画が進んでいるとのことです。コロナ感染の問題や夢洲の地盤沈下などにより、当初の計画が大幅におくれているようですが、2029年にはカジノが設置され,実際の営業がはじまるとのことです。
わたしがカジノに反対するのはもちろん道徳的な動機からではありません。賭博はおそらく人間の歴史とともに存在しており、それを否定するのは人間の本性を否定するのとおなじだと思います。またギャンブル依存症の問題もかなり深刻といえそうですが、そういったことを心配してだけではありません。
パチンコや競馬、宝クジはもうひとつの税金にすぎないとはよく耳にする話です。教育や所得の低い層にたいする逆累進課税となっているかもしれません。いわゆるカジノ法案に反対するのはそのためではありません。カジノにかんしては教育と収入のレベルとの関連性は調査によって否定されています。
もちろんカジノ自体はなにも生産することはないので、ひとびとの富をすいあげるだけのゼロサムゲームにすぎません。しかし想定されているターゲットはインバウンドの旅行客のようですし、すくなからぬ日本人がラスベガスや韓国、香港などのカジノで蕩尽してきた富を、国内で消費させるというだけでも、経済的にはおおきな意味はありそうです。
たとえ賭博という手段であっても、他国の富を自国におとしてもらい、自国を富まさせようと努力するのは、国のリーダーとして当然の責任です。こういった競争は資本主義そのものともいえますが、相互で競いあうことによって全体のレベルを押し上げることになるでしょう。政策としても合理性があります。
しかしわたしがつよい違和感を覚えるのは、たえずあらたな欲望を刺激して消費を増加させることにより、経済成長をめざそうとする高度消費社会といわれるわれわれの社会のありかたです。より多く、より速く、より高度にをめざす姿勢は、今日では生産や流通の現場をこえて、余暇や遊び、社交といったきわめてプライベートな領域まで浸透してきています。
われわれの資本主義社会は、安定といったものや、その裏返しである停滞を徹底して忌避します。あらゆるものが商品化され、さらにはそういう社会への批判やアンチテーゼですら流通や消費の機構のなかに回収して、消費全体を拡大していこうとします。
そういった生産と消費をたえず増大させて拡大、発展しようとする社会のありかたに反発して生まれた価値観ともいえる「ゆとり」や「感性」とか、「エコロジー」といった概念ですら、いまではすべて「商品」と化して店頭にならんでいます。
人間の基本的な欲求の充足がみたされたあとは、副次的な欲望が刺激され、さらにはまったくあたらしい欲望がつくりだされる。そのようにして一国の生産と消費は永遠に右肩上がりで増大するようにたえずしむけられています。
なにをいまさら、そんなことは昔からわかっていることだと批判されそうです。しかし今回のカジノ設置推進とは、すなわち国による賭博のあたらしい開張であり、これほど露骨に国民にあたらしい欲望をつくりだそうとした例はいままでありませんでした。あまりにその意図がすけてみえ、よほど浅ましいと思うのです。
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