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「食べる」ということ

noteを書くのはだいぶ久しぶりになってしまいました。
英語を学びにワーホリでオーストラリアを訪れていた私でしたが、いつの間にか文化を学び、生きることを学ぶことが目的となっていました。現在はWWOOFという活動・制度を利用してホームステイをしながらサステナブルな生き方を肌で学んでいます。WWOOFについても近いうちにまとめようと思います!

さて、今回ここに残したいのは、「食べる」ということ。
なぜ突然そんなことを書こうと思ったの?と思う方もいるかも知れません。
まずはそこから。

※一部、不快な表現があるかも知れません。
読み進める方はご了承いただきますようお願いします。

現在、私がお世話になっているホームステイ先では、非商用目的で牛、豚、鶏を飼育しています。普段は手伝いとして彼らの世話を手伝っています。
そしてこの度は機会があり、鶏の屠殺に立ち会わせてもらいました。

5月17日(捕獲・隔離)

日が暮れた後、鶏小屋から2匹の雌鶏、4匹の雄鶏を捕獲しました。
他の鶏たちと隔離したところにおき、一晩で胃腸の中身を空っぽにするためです。(結果的には一晩では足りないようでしたが)
翌日、屠殺される鶏の温度は自分の手にはとても温かく感じられました。

5月18日(屠殺当日)

メモをそのまま転記します。

朝のティータイム前、いよいよ向き合う時が来た。
両脚を掴み、肉髯(鶏の頭部アゴ部分にあるひだひだ)をなで鶏の興奮を抑える。
切り株には2本の釘が打ち込まれていた。
鶏の頭を固定するためだ。
Didier(ホームステイ先の旦那さん)が手本を見せてくれた。1回、2回よく研いだ出刃包丁で首を強く打った。
頭が取れた鶏の体は、激しく羽ばたいた。首からは血がポタポタと滴った。
ようやく動きが静まった頃、洗濯竿に吊るされた紐で鶏の体を逆さまに吊るした。

やるべきだと思った。今まで食肉を散々食べてきた身として。
包丁を振り下ろしたときの、柔らかい肉の感触と刃を跳ね返す弾力のある皮膚の感触を自分は忘れないだろう。
頭部を切断するのには想像以上のパワーは必要らしかった。
自分とEric(同じくWWOOFで滞在中の韓国人)は中途半端に鶏を傷つけ、苦しませた。
間違った仮定の仕方かも知れないが、もし自分が首を中途半端に切り落とされたら……
と考えたら耐えられなくなった。頭が真っ白になった。

頭部を落とした次にすることは、羽や毛をむしり取ること。
まだ温かい鶏の皮膚から羽を文字通りむしり取る。
最初は痛ましかったが、不思議なことに途中から感情がなくなった。
ただただ、羽をむしり取った。無心になるしか自分には術がなかったのかも知れない。

ティータイム後、次は内蔵を取り出した。
気をつけるべき点は、
肛門につながる腸を破らないこと。
肝臓(liver)の近くにある胆嚢を破らないこと。
汚いし臭いのもととなる。

生きていた鶏は時間を経て手間を掛けて、丸鶏へと変化した。
変化したとは自分の意識の中での話だが。


今日の出来事で自分の中で劇的に何かが変わる、ということは今までの経験上考えられないだろう。
ベジタリアンやヴィーガンになるとかね。
ただ、その過程を知ったことで食べるということに関してより慎重になると思う。

現場を目にしその辛さを味わってもなお、動物の肉を食らうということは人間のエゴだろうか。
弱肉強食。飼う者、飼われるもの。
そこには仕方のないなにかがあるのだろうか。
自然の恵みへの感謝をどう伝えたらいい。
どう伝えたら天秤は平行になるのだろう。

世界ではどうかわからないが、
日本では自分が食べているものが元々どんな姿形をしていたのか知らない子供もいるという。
そんなことがあっていいのだろうか。
考えすぎているのだろうか。
世の中には知らなくてもいいことが多くあるというが、これに関しては当てはまらないと思う

だから俺は色んな経験を好んでする。
知らないことが怖いから。

最後まで拙い文章を読んでいただき、ありがとうございました。
些細なことでも良いので感じたことをコメントしていただけたら嬉しいです。

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