IMG_4473のコピー

「太古の神が住む山」に登った話。

どうも、狭井悠(Sai Haruka)です。

このたびペンネームを

村田悠(Murata Haruka)から狭井悠(Sai Haruka)に改名いたしました。

なぜ今、ペンネームを変えるのかというと、ちょっとした理由があるのです。

今回のコラムでは、先月末、奈良県にある「太古の神が住む山」に登ったお話をしながら、ペンネーム改名の理由についても触れていきたいと思います。


「三輪山」について

とつぜんですが、皆さんは、奈良にある「三輪山(みわやま)」をご存知でしょうか?

三輪山は、「大神(おおみわ)神社」の御神体です。大神神社には本殿がありません。なぜならば、山そのものが神として崇められているからです。

日本国創生の時代より神宿る山とされ、三輪山そのものが神体であるとの考えから、神官僧侶以外は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされてきた。飛鳥時代には山内に大三輪寺が建てられ、平安時代には空海によって遍照院が建てられた。鎌倉時代に入ってからは慶円が三輪氏の氏神であった三輪神社を拡大し、本地垂迹説によって三輪明神と改め、別当寺三輪山平等寺を建立した。江戸時代には徳川幕府より厳しい政令が設けられ、平等寺の許可がないと入山できなかった。明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになった。(出典元:「三輪山」Wikipedia

このように、日本の創生期から崇められている自然信仰の発祥地であり、明治時代までは許可なく入ることができなかった禁足地だったようです。太古の神が住む森というのは、どこか、ジブリの「もののけ姫」を彷彿とさせるものがあります。コダマが住んでいてもおかしくないような山というわけですね。

現在は「入山者の心得」を守ることで、御神体である三輪山に恐れ多くも足を踏み入れることが許されています。神社にお祈りをしにいくことはあっても、神様の「身体の中」を直に歩いていくという経験は、なかなかできるものではありません。

「これは行くしかない!」ということで、先月末に奈良に行って参りました。


なぜ「三輪山」のことを知ったのか?

参拝体験を書く前に、僕がなぜ「三輪山」のことを知ったのかを書いておきます。

僕は三輪山について、最近までその存在すら知りませんでした。一緒に奈良へ旅行に行こうといっていた友達から、「三島由紀夫にゆかりのある山があるらしいよ」ということを教えてもらったのです。それが三輪山でした。

三輪山は、三島由紀夫が晩年の大作である「豊饒の海」四部作を執筆するにあたって、取材を行った山だったのです。

三島由紀夫は『豊饒の海』4部作の第二巻「奔馬」の執筆にあたって、古神道の研究のため、昭和41年6月、奈良・率川神社[いさがわじんじゃ]の三枝祭[さいくさのまつり]に参列。ついで、ドナルド・キーン氏と8月22日再度来社し、社務所に3泊参籠した。同23日、三輪山のふもとにある山の辺の道を散策。同24日、三輪山頂上へ登拝。お山を下りたあと、拝殿で神職の雅楽講習終了奉告祭に参列。感銘を受けた三島は直ちに色紙に「清明」、「雲靉靆」としたためた。(出典元:大神神社・記念碑)

実は、僕は今年に入ってから三島由紀夫に急激に興味を持ち、いろいろと調べていました。

それまで、僕は三島作品をほとんど読んできませんでした。いや、読めなかったという方が正しいかもしれません。これまでの僕は古い作品なら夏目漱石や太宰治、現代の作品なら村上春樹や吉本ばななのような、読みやすくて柔らかい文体の作家を好みました。そのため、三島由紀夫さんの無骨で彫刻のような文体がどうにも身体に馴染まず、読むことができなかったのです。

しかし、今年の1月にyoutubeを閲覧していたときのこと。

川端康成のノーベル文学賞受賞を祝う三島由紀夫の動画がレコメンドに表示されました。再生してみると、川端康成と三島由紀夫が語り合う姿が、モノクロの画面に映し出されます。昭和の文豪が語り合う姿。この映像からしばらくした後、三島由紀夫は割腹自殺をし、川端康成もガス自殺をします。

そのとき、僕はふと思ったのです。

「なぜ、この三島由紀夫という人は、わざわざ腹を切って死んだのだろう?」

そこから、僕はこれまで知らなかった三島由紀夫という作家について、詳しく調べるようになりました。

それまで、僕の中で三島由紀夫という作家は「右翼思想の危険でマッチョでナルシストな作家」というイメージでした。

こんな感じですね(笑)。かなり、ヤバめのおじさんです。日の丸ハチマキに、ボディビルに、日本刀に、ふんどしとか、いろんな意味で怖すぎます。おそらく、皆さんもどこかでこういったイメージを持っているのではないでしょうか。

しかし、調べていくうちに、この人は右翼的な思想を信望していたというよりも、天皇制を日本を語るためのひとつのツールとして解釈していたことがわかってきました。つまり、非常に柔軟な思想を持っている人だったのです。さらに、彼は長大な「世界解釈」を行おうとしていた作家であったことがわかりました。晩年の作品「豊饒の海」四部作は、まさにその「世界解釈」をテーマに描かれていることも知りました。

先月僕が書いたコラム「きみの夢って、どんなものだった?」という話から、思考の回廊を底まで降りてみる。でも少し触れましたが、僕が小説を書く目的として、「世界の仕組みを理解したい」という夢があります。

三島由紀夫という人は、まさに、僕が小説を書く目的としている「世界解釈」に、命がけで取り組んだ作家だったのです。すごい、と純粋に感動しました。

それまでは、村上春樹のような作家の柔らかい文体を真似することばかりをやっていた僕でしたが、三島由紀夫という作家に出会ったことで、小説を書いていく自分自身のアティチュードに、太い背骨を入れることができたような気がしています。ライフワークとして、文章を書いていく。そんな覚悟を備えることを教えてもらったような気がしているのです。

そんなわけで、僕にとっては三島由紀夫の足跡をたどるということは、非常に重要な意味を持つ行為でした。このタイミングで「三輪山」の情報を得たということは、何か発見があるに違いないと思い、奈良の旅に出ました。


結局「三輪山」にたどり着いたのは僕だけだった

友達と三人で奈良の旅に出る日がやってきました。当初は、午前中に松尾寺などを巡ったあと、三輪山に登ろうという計画を立てていました。

しかし、ここで奇妙な変更が入ります。お昼になって、友達のひとりが、「今日はやっぱり法隆寺とか薬師寺に行こう。三輪山は明日でいいんじゃないかな?」と言いました。

僕は翌日も旅行を続けるつもりだったので異論はありませんでしたが、もう一人の友達は「登山の用意してきた!」とはしゃいでいたし、その日に帰らなくてはならなかったので、予定が変わっても良いのかな? と思っていました。しかし、その友達も問題なく同意し、その日は三輪山に行くことなく、旅を終えました。

この急な変更はちょっと不思議に思ったのですが、まあそういうこともあるのかな、ということで眠りについたのです。

深夜1時。もう一人の友達から連絡が入りました。翌日が雨の予報だというのです。そしてあれこれと話したのちに、もう一人の友達も三輪山に行くことはキャンセルになりました。

そして、僕は結局、ひとりで三輪山に登ることになったのです。ちなみに登山のあとに、三輪山について調べていると、以下のような記事もありました。

【撮影禁止】呼ばれた人しか登れない 最強のパワースポット三輪山とは??

もちろん偶然かもしれませんが、友達二人が急な予定変更をした流れを思い返してみると、「呼ばれた人しか登れない」というフレーズに、なんとなく納得するところがありました。


雨のふりしきる大神神社へ足を踏み入れる

雨が降り注ぐ中、大神神社に到着しました。

大神神社は、「古事記」や「日本書紀」にも創祀の歴史が記されている、まさに日本最古の神社です。詳しい云われについては、以下をご参考ください。

当社の創祀に関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとあります。
また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂として顕現され、三輪山に鎮まられたということです。
この様に記紀の神話に創祀の伝承が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、ご祭神の神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。そして、ご祭神がお山に鎮まるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初の神祀りの様を今に伝えており、その祭祀の姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。(出典元:大神神社ホームページ

空気が澄んでいて、独特の神気が満ちているのを感じます。

長い参道を進むと、大神神社のお社に到着しました。ここで、お参り。二礼二拍手一礼を行います。

大神神社の裏側に進んでいくと、「三島由紀夫記念碑」がありました。

三輪山に登った際に、三島由紀夫が感銘を受けて残した「清明」のふた文字が刻まれた記念碑。

「東京の日常はあまりに神から遠い生活でありますから、日本の最も古い神のおそばへ近寄ることは、一種の畏れなしには出来ぬと思ってをりましたが、畏れと共に、すがすがしい浄化を与へられましたことは、洵(まこと)にはかり知れぬ神のお恵みであったと思います」
「大神神社の神域は、ただ清明の一語に尽き、神のおん懐ろに抱かれて過ごした日夜は終生忘れえぬ思ひ出であります」

これらは、三輪山の神域に触れたときの感動を記した三島由紀夫の言葉。これから、その神域に向かうのだと思うと、なんとも心が引き締まります。そして、ここ三輪山で見ることのできる景色は、三島由紀夫が世界解釈を行うにあたって参考にした景色でもあるのです。

何か、見つけることができるだろうか。


麓にある狭井神社でお清めを受けた後、三輪山に登る

大神神社の裏道を抜けて、「くすり道」と呼ばれる道を進み、たどり着いたのは三輪山の麓にある「狭井(さい)神社」。ここで、三輪山に登るための作法を教わります。狭井神社の云われは以下のとおり。

狭井神社は垂仁天皇の御代に創建されたと伝わり、ご祭神の荒魂(あらみたま)を祀る延喜式内社。力強いご神威から病気平癒・身体健康の神様として信仰が篤い。4月18日の鎮花祭(はなしずめのまつり)は、大宝律令(701)に国家の祭祀として大神神社とこの神社で行うことが規定された疫病除けの祭で、多くの医薬業者が参列する「薬まつり」として有名。(出典元:大神神社ホームページ

三輪山は撮影禁止で、登頂から下山まで合計2時間〜3時間はかかります。雨のふりしきる中で、足場も悪い状態でしたから、初めて訪れる方は天気の良い日を選んだ方がいいかもしれません。

しかしながら、僕個人としては、雨の日に三輪山に登ったのは正解だったと感じています。人の気配のない、神気に満ちた森の中へ、どっぷりと入り込むことができたからです。

そして実は、三輪山で起こった出来事は、下山してから人に話してはいけないという言い伝えがあります。

そのため、山の中で起こった詳しい内容は、ここに書くことができません。

ただ、ひとつだけ言えることは、三輪山は、たしかに、ふつうの場所ではないということです。

僕は無心になって、ただただ、山を登りました。切り立った崖。立ち込める霧。脈々と流れる川。深く茂った森。蛇のように地面を這う木の根。時折現れる、大きなしめ縄が締められた磐座(いわくら)。そして、降り注ぐ激しい雨。

それはまるで、どこか違う世界の景色に見えました。ふだん、僕が生活の糧にしているネット環境もなければ、一緒に語り合う人もおらず、山頂まで続く深い森と、険しい道だけがあります。そこはもう、現実の世界とは完全に切り離された異界でした。まるで、観念だけが、そこにあるようでした。森という観念、山という観念、雨という観念、自然という観念。そして、その中を歩く自分という観念。

世界と、自分との境目がどんどん曖昧になっていく。やがて、僕は山の一部になり、山は僕の一部になる——そんな、不思議な感覚がありました。

途中、決められた山の道を外れて、もっと奥の方に行きたいと思うことが何度かありました。なぜそんなことを思ったのか、今になってみると不思議で仕方がありません。しかし、僕は思い直して、誘惑を振り払いました。ここは太古の神の体内なんだ。許されていること以外はしてはいけない。ここでは、どんなことだって起こる。そんな畏れが、僕を支配していました。

そして、片道一時間半ほどかけて、やっと山頂にたどり着きました。そこは、今まで一度も訪れたことがないはずなのに、なぜか懐かしい気持ちになる場所でした。——この景色を、僕は以前、どこかで見たことがある。奇妙な既視感がありました。

しばらく、僕は腰をおろし、山の中の空気と交わりました。何も、僕に語りかけてくるようなものはありません。しかし、同時に多くの何かが語りかけてくるような感覚にも包まれていました。言葉なき言葉。見えるものと見えざるもの。

僕は深々と頭を下げ、山頂をあとにしました。下山する途中、ふと気になる出来事や、不思議なことがいくつかありました。しかし、それらの出来事はすべて、心の奥にしまい込むことに決めて、僕は歩き続けました。

下山しているときに、なぜか「僕は今、うまく歩けている」という奇妙な手応えがありました。

もしかすると、僕は今までの人生の中で、いちばんうまく歩けるようになっているのかもしれない。そして、これから先の人生も、もっとうまく歩けるように、足元に注意しながら、ひたすらに進んでいけばいい。

なぜかふと、そんなことを思いました。そしてそれは、非常に説得力のある気づきとして、僕の意識の深いところに根付きました。


三輪山を下山し、ペンネームの改名を思い立つ

三輪山で起こったいくつかの不思議な出来事と気づきは、僕の意識の深いところに確かに根付き、今後の人生に新しい展開がもたらされるという予感を与えてくれました。

そしてふと、ペンネームを改名してみようと思い立ったのです。

三輪山の麓にある「狭井神社」から苗字をお借りして、

「狭井悠(Sai Haruka)」と名乗ることにしました。

というわけで、これからは狭井悠(Sai Haruka)として創作活動を行っていきます。

とはいえ、何か目立った変化があるわけではないのですが、今後ともよろしくお願いいたします。


以上、三輪山の参拝体験と、ペンネーム改名の理由についてまとめました。

自分なりの気づきをまとめただけなので、ずいぶん自分勝手で長い文章になってしまいましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

一期一会のあなたに、良き気づきが訪れますように。

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狭井悠(Sai Haruka)profile

三重県出身、立命館大学法学部卒。二十代後半から作家を目指して執筆活動を開始。現在、フリーランスライターを行いながら作家としての活動を行う。STORYS.JPに掲載した記事『突然の望まない「さよなら」から、あなたを守ることができるように。』が「話題のSTORY」に選出。STORYS.JP編集長の推薦によりYahoo!ニュースに掲載される。2017年、村田悠から狭井悠にペンネームを改名。

公式HP: https://www.sai-haruka.com/

Twitter: https://twitter.com/muratassu

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サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。