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「マゼラン 最初の世界一周航海」補足レビュー「「分からない事」があるから本を読んでる筈なのに本を読めば読む程「分からない事」が増えて行く不思議。」

先日noteに「マゼラン 最初の世界一周航海」のレビューを投稿したのだが,書きたい事がどんどん増えて膨れ上がり,
さながら違法増改築の様相を呈して来たので,
ここでは稿を改めて
僕が本書を読みながら次々に出て来た疑問の数々を追いながら
ナマイキにも「読書の愉しみ」について触れられたらと愚考します。

本書はマゼランの最初の世界一周航海に同行したピガフェッタの報告
及びスペイン王国次席秘書トランシルヴァーノの調書である。
後者は前者のダイジェスト的性格が強い。

僕が本書を読んでいて疑問に思ったのはマゼランの頭の中に
如何なる世界地図が存在して,その世界地図を元に航海したかである。

ピガフェッタによるとマゼランはポルトガルの王室宝蔵庫でマルティン・べハイムの作製した地図を見た事があり,その地図に海峡の存在が記されていたと言う。

「マゼランの世界観」に「べハイムの世界観」が
影響を与えていると言うのなら
「べハイムの世界観」とは如何なるものなのだろうか。

マルティン・べハイムは1492年
(クリストファー・コロンブスが北米大陸を発見した年)に
現存する最古の地球儀を製作した人物で,
その地球儀には当然南北アメリカ大陸が反映されてない。
またべハイムの「東方」に関する知識は
「マルコ・ポーロの世界観」が反映され,
かのジパングも彼の地球儀に反映されている。

さあ忙しくなって来た。
今度は「マルコ・ポーロの世界観」の調査だ。
1271年に17歳のマルコは
ヴェネツィアからマテオ兄弟と共にアジアへの旅に出発する。
マルコの生家は代々商家で
彼の父ニッコロ・ポーロはマテオ兄弟と共に
モンゴル帝国の第5代皇帝であり
元(げん)の初代皇帝でもあるフビライに謁見していた。
マルコが21歳の時,元の都・上都に到着する。
フビライは一行を歓迎し,元の役人として登用し,
マルコは外交使節としてインドやビルマを訪れた。
彼は帝国領内や
東南アジア(現在のスリランカ,インドネシア,ベトナム)各地を訪れ,
任務の傍ら現地で見聞きした事を語ってフビライを喜ばせた。
彼は足掛け17年,元に滞在し,
1291年フビライから帰国を許された彼は再び4年かけて
コンスタンティノープルを経てヴェネツィアに戻っている。
現在の中国・杭州から現在のイランのホルムズ海峡を望む位置に
あったとされるホルムズまでは海路を用いていて,
その際彼はマラッカ海峡を通過している。
マラッカ海峡は西暦166年に
ローマ16代皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス又は
先代皇帝のアント二ヌス・ピウスが利用したと考えられていて,
古くからその存在が知られていたのだ。
但しマルクス・アウレリウス・アントニヌスの「自省録」の解説では
アントニヌス・ピウスは161年に没しているとの記述もある。

「マルティン・べハイムの地球儀」への東方見聞録の記述の影響は
1.ジパング
2.元(杭州周辺)
3.東南アジア(インドネシア・ベトナム)
4.マラッカ海峡
に顕著であって,マルコの渡航経験の無いジパングはいい加減で
群島の中にジパングがあると言った風だが,
彼が長期滞在した杭州周辺・インドネシア・ベトナム…。
特に古くから海路の要衝であったマラッカ海峡の描写は結構面影がある。

マゼランは西へ西へと進むと大陸があり,
大陸には「高緯度の切れ目」があって
船舶の通行が可能だと主張して譲らなかった。

彼の主張の論拠は「べハイムの作製した地図」であって,
先に述べた通り「べハイムの世界観」に南北アメリカ大陸は存在しない。
べハイムは東方を「東方見聞録」を元に地球儀を製作しており,
べハイムの「アジアの概念」にはアジアの高緯度に海峡が描かれている。

「マゼランの世界観」に南北アメリカ大陸が無いのなら
スペインを出て西へ西へと進むとアジアに到達して,
そのアジアに「高緯度の切れ目」…。
つまり海峡があると「べハイムの世界観」を論拠に
彼はスペイン王と側近を説得したと考えられる。

これは僕の考えですが
マゼランが念頭に置いてる「高緯度の切れ目」って…。
マラッカ海峡なのではないでしょうか。

「マゼランの世界観」が正しいのなら
海峡の先にはインド洋が広がっている筈である。

だが実際にはスペインを出て西へ西へと進むと
南北アメリカ大陸が行く手を遮り,
彼が発見した「高緯度の切れ目」…海峡とは,
すなわち後の「マゼラン海峡」であって
マゼラン海峡を抜けた先に広がってるのは太平洋なのである。

ピガフェッタの記述によると
マゼラン海峡を抜ける前の大洋をマーレ・オチェアノ(大きな海)と呼び.
マゼラン海峡を抜けた後の大洋をマーレ・パチフィコ(太平(平和)の海)と
名付けたという。
彼等がマーレ・パチフィコに入ってから110日の間,
1度も暴風雨に遭っておらず,
ピガフェッタは
「まこと太平(パチフィコ)である」
と感嘆している。
大きな海=大西洋での暴風雨に苦しめられた航海の苦労が慮られる。
勿論マゼランが名付けた
「マーレ・パチフィコ(太平の海)」
が「太平洋(Pacific ocean)」の語源となってる事は言うまでもない。

マゼランにとって「太平洋」の存在が彼の頭の中の地図,
彼の世界観を変えていったことは想像に難くない。
彼の世界観では海峡を抜けた先に広がってるのはインド洋で
東インドと東インド諸島について
彼程通じた人間はスペインにはおらず以降の旅路に地の利があった。
ところが実際には前人未到の未知の大海が広がっていたのだ。

太平洋を横断しながら航海する上での
問題は「補給が出来ない」という点であって,
彼等が太平洋に入ってから,およそ110日の間,陸地は全く見つからず,
2つ見つかった無人島には小鳥と樹木の他には何も無く,
その周囲には停泊出来る場所も無く,沢山の鮫がいるだけだった。
勿論選択した航路もその一因で,ピガフェッタは,

「もしも我々が(マゼラン)海峡の太平洋側から西へ西へと
一直線に運航したならば陸地に全く出会う事なしに
世界を一周し(マゼラン)海峡の大(西)洋側に到着していたであろう」

と述懐する。
彼の…従ってマゼランの頭の中に,この航海を経て,
「太平洋」の地図情報が
構築・追加・更新されて行く過程が分かるのである。
「補給の出来ねえ,この航路は,このままじゃ使えねえ」
って教訓と共に。

太平洋に入ってから補給の出来ない彼等は
飢餓と壊血病に苦しみ,ビスコット(乾パン)に虫が湧き,
日数が経ち過ぎて腐敗し黄色くなった水を飲み,
鼠1匹に金貨半分の値が付き,
メインマストの帆桁(ほげた)に張り付けてあった
綱の摩損防止の牛の皮まで食べた。
壊血病で何人かの乗組員の歯茎が上下の歯まで含めて腫れて来て,
どうしても物を食べる事が出来なくなり死ぬ者が生じたのである。

この苦しみは一行がフィリピン諸島に到着し身振り手振りで
物々交換に応じる「道理の分かる人達」と出会うまで続いた。

マゼランはズブ(セブ)島に入港し,ズブ王に謁見し,通訳を通して
「自分は偉大な国王の提督であって
世界の如何なる王に対しても税を納める事はしないのだ。
従ってオマエが要求する税を払う気はない。
戦争か平和か好きな方を選べ。」と伝え,
モロの商人(マレー系のイスラム教徒)が
「この人達はカリカットやマラッカや大インディアを
征服したあの連中(ポルトガル人)です。」
とズブ王に助言するとマゼランは
「自分達の国王はポルトガロ国王よりも船舶も兵力も更に強大であって
スパーニャ国王と言って,全てのキリスト教徒の皇帝でもある」
「だからもし友好関係を結ぶ事を拒むならば,
この国土を全て破壊してしまう程の兵員を派遣して寄越すだろう」
と言った。

そうしてズブ王を屈従させた次は王にキリスト教徒になって貰い,
偶像を焼き捨てさせる。
広場に大きな十字架を立て毎日礼拝させる。
王の身内に王への忠誠を誓わせた後,
王にスパーニャ国王への常に変わらぬ忠誠を誓わせる。

マタン島の領主のひとりシラプラプがスパーニャ国王への臣従を拒んだ。
マゼランはマタン島の町ブライアを焼き滅ぼしていたのだ。
マゼランは次の様に通告させる。

「彼等がもしスパーニャ国王に臣従し,
そしてキリスト教徒のズブ王を主君として認め,
更に我々に貢納するならば提督は彼等の友人となろう,
しかしもしそれと反対ならば,
我々の槍の威力がどの様なものであるのかを今に知らせてやろう」

彼等はこの通告に対して
「もし我々を槍を使って攻撃するならば,
自分達にも火に焙って鋭くした竹槍と棍棒がある」
と応じた。

ズブ王を傀儡として立てて政治的にも宗教的にも
侵略の手を緩めないマゼランのやり口が赤裸々に綴られてる。

マゼランはこの戦いで命を落とし,
後日ズブ王に招待された24名の乗組員は通訳を除いて皆殺され
「マゼラン艦隊」は這う這うの体(ほうほうのてい)で逃げ出した。

マタン島は現在マクタン島と呼ばれ,
マゼランを打ち滅ぼした領主シラプラプは
「マクタン島の王様ラプラプ」
として筋骨隆々の逞しい王の像が立っている。
ラプラプ王と侵略者マゼランとの一騎打ちは
マクタン島の人気の演目となっている。

「私は異教の神にもスパーニャ王にも決して頭を下げぬ」
「私が頭を下げるのは我が神と我が国民に対してのみだ!」

と大見得を切るラプラプ王の演者の勇姿には目頭が熱くなる。

ラプラプ王良くやったなあ。
傀儡と思ってたズブ王良くやったなあ。
「マゼランのやり方」に反感を抱くなと言うのが土台無理な話なのである。

「マゼランの世界観」の更新はマクタン島で止まった。
マゼランの死後,「マゼラン艦隊」は2人の指揮官を立て旅を続けた。

ピガフェッタによるとマゼランは自分の航路計画の骨子となる
「海峡の発見」という目的を乗組員の誰にも伝えなかったと言う。
マゼランが求めた「海峡」とは
マルコ・ポーロが東方より帰還する際に用いた
マラッカ海峡である可能性があるが
マゼラン艦隊はマラッカ岬に最接近するもののマラッカ海峡を通過せず,
喜望峰を目指している。
ピガフェッタはマゼラン海峡こそが
西回り世界一周航海の航路開拓で発見すべき「海峡」であると
従来の「マゼランの世界観」を訂正し,
指揮官にマラッカ海峡を通過する様,敢えて進言しなかったのではないか。
「マラッカ海峡通過の重要性」を感じていたマゼランが死に,
彼の計画を知っていたピガフェッタが沈黙を守れば,
後はポルトガル領のアフリカを迂回してさっさと帰るだけである。
ピガフェッタの報告に於ける「海峡の発見」で語られる「海峡」とは
マゼラン海峡を指し,マラッカ海峡からマゼラン海峡に
「ピガフェッタの世界観」が更新されていた証拠であろう。
「ピガフェッタの世界観」は
「実際に航海してみた結果」に則して柔軟に変更されてるのだ。
「ピガフェッタの世界観」に勿論南北アメリカ大陸は無かったであろうが,
彼は南緯五十二度で大(西)洋から太平洋に抜ける(マゼラン)海峡を通過し,
海峡を抜けて太平洋を横断してフィリピン諸島に到達し,
東インドの国々に寄りながら喜望峰を迂回して
スペイン・サンルカルの港に帰還し
西回りの世界周航を完成させて生還して
世界一周航海の生き証人となったのである。

勿論その証言に一説によると
クリストファー・コロンブスとも交流があったとされる
ポルトガルの比類なき世界誌学者マルティン・べハイムの
権威を最大限に活用し証言に重みを加えた事は言うまでもない。

ピガフェッタは毎日航海日誌を記述していたが喜望峰を迂回し
サンティアゴ島に停泊して本日の日付を確認したところ1日ズレている。
彼は現在の言葉で言う所の「日付変更線」を越えていたのだ。

「日付変更線」を越えた事実が
ピガフェッタの西回りの世界周航完成の証明となっているのである。

分からない事があるから本を読んでいる筈なのに
本を読んでいると益々疑問が湧いて分からない事が増えて行く。
都度読書を停止して調べるから益々読むのに時間がかかる。
「読書」とは斯くも手間暇かかる趣味なのだ。
「こんなに楽しい事」って他にある?
「読書感想文」が益々長くなるのも,けだし当然なのである。





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