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なぜかダライ・ラマ14世と父がリンクした話

先日仕事をしていたら。

いわゆる布教活動をしている方が来たので、丁重に門前払いをした。

「どうか考えてください」と笑顔で言われたけど、すいませんと頭を下げた。

すこし脱線するが、うちの家は初詣に行く文化がない。

小さい頃、紅白を観ながら「なんでうちは初詣にいかんの?」と父に聞いたら、

「わざわざ人が多いところに何で行かんのか」と一蹴。

今思えば罰当たりな発言ですが、「それもそうだね」と言った

父は本当に墓参りも雑。

線香はやらず、鈴棒(りんぼう)をチーンと鳴らして終わり。

奇跡的に手を合わせることがあっても、1秒。

気付いたらいなくなっている。

何で?って聞いたら、「(父にとって)意味がないから」とバッサリ。

「人間は死ぬ時は死ぬ、以上」

だって。

あの父の無駄なコスパのよさ(?)は、なんだろうと思っていたけど、最近記事であがってたダライ・ラマ14世の講演とちょっとリンクしたんですよね。

その時の記事。

ドラッグやアルコールやお金から幸せは得られません。究極の幸せや喜びは、思考によってのみ得られるのです。そして、宗教への信仰心から得られるものでもないのです。
信仰するのではなく、考えなければなりません。我々人間の頭脳を使い、科学的に考えなければなりません。神様や仏様に祈る必要はないのです。
その点において、釈尊は非常に賢明でした。「私は人々の苦しみを取り除くことはできません。私は人々の否定的な感情を洗い流すこともできません。私は私自身の心の平穏を人々に与えることもできません」。
釈尊は、ご自身の経験を元にした心の平穏を得る方法を、ただお示しになったのです。素晴らしいですね。
1人の人間としての釈尊であり、神様ではありません
ーダライ・ラマ14世

仏教の指導者が、「幸せは宗教への信仰心から得られるものではない」と宣言するってすごい。

何が言いたいかというと、父はきっと、自分の行動だけが全てだと決めているのだ。

とはいえ、たまには祈るって大事だと思うけど、父には不要な時間っぽいです。

行動すれば、祈る必要もないのだろうか。

なぜかダライ・ラマ14世と父がリンクした話

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