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言葉の自然/想定発信者

言葉の自然

「読む自然」と「発する自然」の一致によって、言葉の自然は得られる。
 それは、受手の使用語彙と為手の使用語彙、及び、その環境による蓄積が基準となる。このライン以上であれば、自然、このライン以下であれば不自然となる。
 
 この判断には、言葉の流れに限らず、あらゆるコンテキストが含まれる。結果として、その語の位置が確定され、「意図している表現の対象」を表す時の縁取り方が受手と為手の間で一致するかが問題となる。

 そうすると、言葉同士の境目の決定による言葉の位置の確定以前より、表現対象もそのコンテクストによって現在は過去方向に限定されながらも、未来方向に発散され無限の未来中にある無限択から選択し、一致をさせることで自然を得ることになる。

 故に、「この場面でこの登場人物はこのような言動をするのは、自然/不自然」という判断が、物語の上でもできるようになる。同様にして、物語と生活という次元の違うのある中でも、物語における時間と、そこに内在するコンテクストによりその組み合わせで、想定されうる無限の限定範囲が設定され、これが書かれたものと一致することで、もっともらしく自然にあることができるようになる。


想定発信者

 為手、すなわち言葉の発信者にも次元がある。例として、入れ子型の物語を想定する。
 
 まずは、登場人物Aが、登場人物Bに登場人物Cとの会話を話していたとする。そして、その話の内容は登場人物Cが登場人物Dと話していたというものにする。
 これは、AとBが話している時点でCとDが会話をしていないため、違う時間連続の中にいるため別次元として考えることができる。
 この時、Bが想定できる発信者はAである。これはBのいる時間連続からすれば、目の前にいるAが続けている言葉であるからAを想定できる。そして、Aを媒介としてCとDも発信者として想定することが可能である。
 ここで仮に、AとBがCの発言の自然に注目したとする。ここで主題にならなければいけないのは、CとDが会話の中で作り上げたコンテクストによって、限定された無限の自然の選択肢の中からAとBが想定した択を選べていたかである。つまり、聞き手であるBは、話し手であるAをコンテクストに含める必要なく自然を判断する必要がある(Aが信頼できる人間であれば)。
 そして、これは無限に入れ子にすることが可能である。

 さてそのように考えると、物語においては想定する発信者に「作者」を見出さずとも良いことになる。先の例に照らせば、作者はA、読者はBに置かれ、現実世界と物語世界は同一時間上の連続になることはなく、別次元になってしまうため、物語内のコンテクストにはならない。
 さらに、読者と作者で一致する箇所において自然を見出すのであれば、読者は知られざる「作者」を想定することはできないため、物語解釈においては「作者」をコンテクストから外さなければいけなくなってしまうためである。これは、同時に作者から見た読者についても同じことが言える。
 「作者」が外されることにより、純粋に物語としてのコンテクストが始まり、登場人物が描かれ始めた時から登場人物としての制限的自然を得ることで、現実世界との時間的連続から切り離された別次元のものとして解釈することが可能になる。
 従って、物語次元に想定発信者は登場人物に限られ、現実世界にいる作者は現実世界にいる我々によって取り込まない限り物語次元のコンテクストと繋ぎ合わせる必要性はない。



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