紫乃羽衣

行街の発起人 色々書きます。読みます。

紫乃羽衣

行街の発起人 色々書きます。読みます。

マガジン

  • 思いついたらつける草

    • 38本

    週刊連載を目指している不定期連載のエッセイになる予定集 三人の作家たちが、思いついたときに小説にするまでもないけど、とりあえず書いておこうかなって思ったら、ゆる〜く書きます。 たまに小説も入っています。

  • 詩||小説

    詩と小説について考えてみるエッセイのようなもの 上から順番になっています。

最近の記事

言葉の自然/想定発信者

言葉の自然 「読む自然」と「発する自然」の一致によって、言葉の自然は得られる。  それは、受手の使用語彙と為手の使用語彙、及び、その環境による蓄積が基準となる。このライン以上であれば、自然、このライン以下であれば不自然となる。    この判断には、言葉の流れに限らず、あらゆるコンテキストが含まれる。結果として、その語の位置が確定され、「意図している表現の対象」を表す時の縁取り方が受手と為手の間で一致するかが問題となる。  そうすると、言葉同士の境目の決定による言葉の位置の

    • 話し言葉と書き言葉 ②

      あまり入れたくなかったのですが、あまりにも前からの続きなので前回はこちらから。 さて、こうすると「書かれているのに話し言葉」という疑問の持ち方ができなくなる。「音に忠実に書かれている言葉」は、話し言葉に含まれると考えられる。 そうであれば、書き言葉と話し言葉の両者に含まれる言葉が多く存在しているように思われる。むしろ、それらが重なった領域に存在していない言葉の使用こそが、違和感の正体であるように思う。 書き言葉にしか所属していない言葉を使うと、何を「使っていない言葉を」と

      • 話し言葉と書き言葉 ①

        話し言葉と書き言葉について考えてみる。 この二つの厳密は違いは何かと言われると非常に曖昧なように思われる。 よく言われるのは、話している時のような言葉遣いが話し言葉で、文章に書くときに使うのが書き言葉であると言うことだが、これでは何も説明になっていない。 話し言葉を書く人たちもいるし、人によっては書き言葉のような話し方をする(少し面白い)人もいる。 ここに厳密な定義を求めるのは難しいかもしれないが、話し言葉と呼ばれるものには、いくつかの特徴があるように思う。 その特徴を

        • 断罪のポエム ②

          書くものであるのに話し言葉を使わなければ不自然を感じ、それがあまりにも非日常的だと不自然を感じる。 その一方で、書く芸術のなんたるかを考えると この不自然に対してもやはり違和感はある。日本は近代に入ってより自然主義を主流にしてリアリズムというもの追いかけてきた。これはリアルを求めながら書いていくと言うわかりやすい主義である。簡単に日本語で言うのであれば写実主義になる。作品の中の非現実的な部分は確実に消していく。宇宙間戦争なんて起きるはずがない。なぜなら、現実にないからである

        言葉の自然/想定発信者

        マガジン

        • 思いついたらつける草
          38本
        • 詩||小説
          6本

        記事

          断罪のポエム

          「ポエム」に感じるのは、陶酔である。 私は、はっきりいうとこの陶酔が嫌いである。独りよがり、というのであろうか。何が言いたいか分からない。けれども、それっぽく安くありふれた言葉で何かを書いた気になっているように見えるものがある。 それで、作家が気取ってなどいたら目も当てられない。 もう少し言葉を繕って、婉曲的に話していこう。 「ポエム」というのは、自己内省的である。 しかし、誰も求めてなどいない。その上に、新しさというものもない。どこかで見て聞いたことがあるような言葉を並

          断罪のポエム

          詩| |小説

          最近では、ずいぶんと詩と小説の境目が曖昧になっているような気がする。 短編小説を読んだときに、これは詩であると感じることが多い。 わかりやすく言うと、詩と言うよりは「ポエム」であると言う方が感覚としては近い。ただ注意して欲しいのはpoemではなく「ポエム」であるということ。 短編小説という名の皮を被った「ポエム」。 ただ、これを思うと同じくして、小説の小説たる所以を考えなければいけなくなってしまう。その拠り所無くして、これは小説である、これは詩である云々をいうことができな

          詩| |小説