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断罪のポエム

「ポエム」に感じるのは、陶酔である。
私は、はっきりいうとこの陶酔が嫌いである。独りよがり、というのであろうか。何が言いたいか分からない。けれども、それっぽく安くありふれた言葉で何かを書いた気になっているように見えるものがある。
それで、作家が気取ってなどいたら目も当てられない。

もう少し言葉を繕って、婉曲的に話していこう。

「ポエム」というのは、自己内省的である。
しかし、誰も求めてなどいない。その上に、新しさというものもない。どこかで見て聞いたことがあるような言葉を並べている。
ただ、どこかで見て聞いたことがあるような言葉だが、日常で誰も使わない言葉を使っている。使っているのだとしたら、きっと周りからは、すてきなあだ名がつけられているであろう程の非日常的な語。

ただ、ここで思い返したのは、 日常的な語を使っていることへの自然さを自分が感じていると言うことである。これは本来であればおかしい。何がかと言えば、根拠に話し言葉を持ってきているところ。
詩といえども、書かれる言葉である以上は書き言葉であっても問題ないはずである。しかし、書き言葉で書かれている詩を見ても、おそらく何もこちらの心が震えることはなく、むしろ不自然さを今感じている。

それでは、話し言葉であれば なんでも良いのかと言われれば、やはりそういうわけでもなく、繰り返しになるが、話し言葉でありながらも、普段使われないような言葉が使われると、それはやはり不自然に感じてしまう。

詩と言うのは、元来、話し言葉で良いものである。
しかし、それは日頃から使う言葉であるという前提なのだろう。
断罪、などと言えば「ポエム」となってしまうに違いない。


普段は「行街」にて、エッセイらしきものや小説を書いています。


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