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pasta di pace ~パスタ ディ パァチェ~

紫乃羽衣

 「いいかい、こういう時にはC'era una volta…といって始めるんだ」

 *ーー*ーー*

 イタリアンレストラン「ラ・フォンターナ」のカポクオーコである彼はずっと悩んでいた。
 師匠の残した鳥肉パスタの味を再現したかった。師匠とは言っても、イタリアの修行時代に本当の師匠から行ってこいと言われた民家の主人で、その主人は料理人でもなければ、特別に自分の料理に誇りを持っているということでもない。観光客を相手に、日常的に自らが作る料理を振る舞っているだけだった。その師匠が振る舞ってくれた料理が未だに作れない。試しに作っては、食べてみて、これも違うと言い、少しずつ配分を変えて作ってみて、食べて、またこれも違うと言う。どうもうまくいかない。あの時、あそこで食べた味。こんなにも美味いものがあるのかと感じた、あの衝撃。その味の再現に苦労をしていた。
 彼自身の願いは叶わないのに、その直向きな努力はリストランテとしては困らなかった。店を訪れるお客さんからは、いつも美味しいと言ってもらえた。その評判は同業者に広がり「イタリアンシェフがおすすめをするリストランテ」として彼の店にはテレビも来ることが何度もあった。しかし、彼の顔はいつも晴れない。笑顔の奥に曇りが隠れている。民衆というのはポジティブなもので、その彼の曇りは昔ながらの職人気質によるもので味にシビアになれる料理人だと、好意的に受け取るようになった。彼も、それ自体は悪いことだと思えなかった。試作を多く作るには、材料費がかかってしまう。リストランテが繁盛していくのは良いことだと思った。
 しかし、困ったことには店が繁盛してしまったために、試作を作る時間があまり取れなくなった。そこで、兼ねてより熱心に志願し店に何度も来ていた若者を弟子に取ることにした。
 彼には、料理を作る才能だけではなく弟子に教える才能までもあったらしい。見よう見まねだけでは成長が遅いと感じたので、レシピを数字で細かく伝え、ガスコンロも火力を一定にできるように工夫をした。そのほかの調理器具も新しく買うものは馴染みのある同じものにするようにした。これがとてもうまくいったらしい。弟子は、あっという間に成長を遂げていった。アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノは、世界で肩を並べることができるのは、彼だけだと言われるまでになった。
 二人で働けるようになって時間ができ始めた彼はさらに試作を重ねた。弟子のために整えた環境は、再現のための試作とも相性が良かった。計量を正確にし、火の通し具合も今までとは比べ物にならないくらいのバリエーションを効率よく試せた。しかし、彼は満足のいく味が作れなかった。
 もっと時間の欲しかった彼は、お店をより高級志向にした。1日の客さんの数を絞って単価を上げようとした。しかし、今のままでは値段を上げることもできないと考えた彼の出した結論は、お客さんのリクエストに答える、と言うメニューの開発だった。これをやれば実際に仕入れにかかる費用は上がるかもしれないけれど、それを口実に価格を上げることができると考えた。
 これが、大当たりだった。いくら美味しいお店と言っても、美味しい店が幾つも並べば舌の肥えたお客さんには、色彩が与えられなかった。しかし、お客さん自身が食べたいと思うものを提供するのは求めるものを完全に提供できるということだった。普通では難しい注文でも、試作を繰り返して、沢山のノートを書いてきた彼にとっては、壁にならなかった。
 再現のための研究を進められる時間は増えたが、彼の満足がいく味は現れなかった。彼はどうしてもあの衝撃を忘れることができず試作を繰り返していた。

 ある秋の日だった。ずっと悩んでいる彼にも妻ができた。それは、一番弟子だった。店から出ようとしない彼と、朝から夜までずっと働いている弟子が仲良くならない方がおかしいくらいだった。しばらくは二人で働いたが、彼女が子供が欲しいと言い始めた。彼は嫌とは思わなかった。むしろ嬉しいくらいだった。しかし、困ることがないわけではなかった。そうなってしまうと、今までのように店を回すことは難しいし、もしもの時に自分がいなくなっては店が回らずに収入が潰えてしまう。彼は、もう一度弟子を取ることにした。もはや、同業者からも認められ、日本で一番の呼び声高いリストランテのカポクオーコに弟子入りを志願するものは後を絶たない。その時にタイミングよく志願をしてきた二人を弟子にすることにした。
 やはり、彼には弟子を育てる才能があったらしい。それに加えて今では妻となった一番弟子の彼女もいた。弟子の二人が立派に一人でも回せるほどになった頃には、彼女のお腹はだいぶ大きくなってリストランテに来るのが難しくなっていた。彼は、彼女のことを心配しながらも、試作を繰り返し続けた。今まで二人で回してきたリストランテを三人で回すようになってからは、彼自身が取れる時間も増えていった。書き留めてきた試作の失敗ノートの冊数が積み重なっていくばかりで、納得のできる味に辿り着くにはまだまだかかりそうだと、彼も腹を括り始めていた。

 ある年の3月22日、娘が生まれた。彼は、出産に立ち会うことができなかった。
 彼女の気遣いだった。お腹が大きくなり始めた頃に彼と話し合ったことがあった。本心を言えば一緒にいて欲しい気持ちもあった。しかし、私が好きになったのは、ああでもない、こうでもないと言いながらパスタに向き合う彼の姿だったから、それを無くしてほしくない、と彼には伝えた。それもまた、本心の一つだった。彼は心配をしながらも、これ以上気を使わせるのもよくないと考えた。そして、とても素敵な妻に巡り会えたと思った。
 彼が病院から連絡が受けた時には、このまま病院にくべきか、彼女の気遣いを無下にすることなく料理を作るかを悩んでいた。それを見兼ねた二人の弟子は「何をぐずぐずしてるんですか!早くいってきてくださいよ!俺たちがいるでしょう!」と声を震わせて言った。初めて見る弟子の顔と勢いに突き動かされて、飛ぶようにリストランテを後にした。目には、うっすら涙を浮かべながら顔を真っ赤にして怒ってきた。二人からしたら師匠にした初めての反抗だった。
 彼は、心の中で何度も感謝をした。

 彼は、店を出て捕まえたタクシーの中で悩んでいた。子供の名前が思いつかなかった。今、産まれるとあるのに、名前が決まっていないというのもおかしな話だが、彼の頭の中はいつもパスタのことで頭がいっぱいだったのだから、それも仕方がないように思えた。しかも、彼女も元はといえば彼の弟子なものだから、夫婦揃って触れ合ってきた名前はイタリア語のものばかりで、なかなか日本人らしい名前というのが出てこなかった。
 結局、病院に着いた時には、すでに生まれていた。受付で看護師さんが、教えてくれた。自らの不甲斐なさに、妻とどういう顔で接すればいいかわからなかった。妻のいる部屋の扉を開ける力がなかった。すると、看護師から「何しているんですか、ほら、入った入った」と背中を押され扉を開けると、窓一面に淡くほのかな紅がゆったり揺れていた。 
 彼女は、驚いていた。来てくれると思わなかったと言われた。彼は返す言葉がなかった。彼女は、お店、大丈夫なの、と心配をしてくれた。彼は、大丈夫、僕たちの弟子だ、と自信を持って答えた。彼は、我が子を探したが、彼女によるとまだ検査をしているということだった。
 彼は、何を言えばいいかわからなかった。多くの感情が渦巻いているのはわかるけれど、言葉にするのが難しかった。その様子に気づいたのか、彼女が、窓の外、見た?と尋ねてきた。彼はああ、綺麗だよね、桜、と言いながら、「本日、桜の満開宣言が発表されました」とタクシー中で聞いたラジオの声を思い出した。

 窓の外に咲く、ほのかな桜。
 見る人を思い思いに楽しませる美しい花。
 みんなが集まる場所。

 彼は、だから、とそのまま彼女に伝えた。
 彼女は、うん、と笑顔で彼にうなずいた。


 それから、3年と数ヶ月が経ったある日のこと、娘が彼の仕事場を見てみたいというものだから、4歳の誕生日に見せてあげることを約束した。その日は、毎年予約してくれる常連のお客さんがランチで入っていたので、ディナー以降は彼が貸切にした。そうすれば、仕込みも早く終わらせることができて、弟子たちのためにもなると思ってのことだった。
 ランチを済ませて、ディナーまでの間に誕生日ケーキも買ってこようと彼は店を後にした。

 ディナーが始まるまで待てなかった娘と、それに連れられた彼女はリストランテの近くにある大きな公園で遊んでいたらしい。動物園や博物館や美術館が並んでいて大きな池がある公園で、時間を潰すにはちょうどよかったんだとか。それでも、娘は我慢ができなくて彼女は少し困りながらも、ランチタイムが終わったあたりでリストランテへと向かい、弟子たちに、ごめんねと言いながら待たせてもらった。弟子たちも、あの!娘さん!と言いながら、歓迎をしてくれた。それでも、念願叶ってきただけに娘はワクワクして、ずっとお店の中を歩き回っていた。
 娘が厨房の方に行きたいというので、弟子たちに邪魔じゃないかを確認して、娘にはお仕事しているから邪魔しちゃダメだからね、と念を押して彼女は一緒に厨房へ入った。娘は、一つ一つの調理を楽しそうにみながら「なんで、ここにいるの?」と弟子に尋ねた。娘に尋ねられた弟子は、なんでここにいるかって?と少し困ったように聞き返した。娘は、黙って頷いた。弟子は、うーん、そうだなあ、と悩みながら、「君のパパがね、素晴らしいからだよ」と答えた。あの時期の子どもの追求心は恐ろしいもので、娘は「なに?」と追い討ちをかけた。弟子は、苦笑いをしながら、それでも彼女に少し照れながら言った。「君のパパはね、お客さんをたくさん喜ばせることができるんだ。それだけじゃなくてね、ずっとひたむきに味を追求しようと研究されている。そんな人が一番美味しい料理を作るんだ。憧れなんだよね、だからここにいようと思えるんだ」と。
 その答えに満足したのかわからないけれど、娘は「あれ着る」と彼女にせがんだ。彼女は、「パパ待たなくてもいいの?」と聞いたが、娘は、うん、と返して、今日のために彼女が仕立てた調理着を着た。
 娘が「もう作る」と言い始めて聞かなくなったので、彼女はもう始めてしまおうかと自分の支度も済ませた。彼女が「何から作るの」と尋ねたら、「ハト」と答えた。
 その場にいた全員の時間が止まった、どうしたら4歳を迎える少女の口から「ハト」を料理するという発想が出てくるのか。思い当たる節があったのは、彼女だった。彼女がいうことには、さっきの公園で鳩を見ていたからじゃないか、ということだった。弟子たちは「なるほど」と口にしたが、納得は全くできなかった。その空気を察した彼女が「この子、将来水族館に行って、煮付け食べたいとか言い出すタイプよね」というと、弟子たちも「天真爛漫でいいですね」とか「食材を目の前に調理したくなるの、料理人として最高じゃないですか」と言って大笑いをしていた。娘は、何が何だかわからないながらも楽しそうな笑い声の中で一緒にニコニコしていた。
 彼女が「でもね、ハトは、さすがにないから他のを考えよっか」と娘に言うと、弟子が「いえ、ありますよ、ハト」と答えた。彼女もさすがに驚いて「あるの?はと?」と素っ頓狂な声が出た。弟子の一人が言うには「ええ、ありますよ。師匠が出産された日、なのでちょうど4年前から、このお店に来てくれる常連さんがいらっしゃって、なんでも旦那さんがイタリアの方で、故郷で食べていたハト料理が食べたくなっていらっしゃったのだとか。少し癖があって日本ではあまり出さないですからね」ということだった。弟子が娘に、それじゃあ、お姉さんとハト作ろうか、と言って厨房に入っていった。
 彼が帰ってきたのは、ちょうど17時ごろだった。
 誕生日ケーキやらプレゼントやら、明日の仕込みのための食材やらを一度に持ってきたらしくて、思ったよりも時間がかかった。何よりも、娘のために選ぶケーキやプレゼントは優柔不断な彼らしく、ずっと迷っていた。そうやって悩んでいる間に彼女から電話がかかってきた。どうも娘が待ちきれなくて作り始めてしまったらしい。彼女に、何がいいだろうか相談すると、本人に聞いてみるわ、と娘に確認をしてくれた。今までの悩みは嘘だったかのように買うべきものが決まり、すぐにリストランテへの帰途についた。

 彼が帰ってから驚いたのも無理はない。
 娘が厨房で作った初めての料理がピッチョーネになるなんて、夢にも思うはずがない。不恰好な白い調理着をきた娘と不恰好な盛り付けを何度も見比べながら、「パパ見て、すごいでしょ」と言わんばかりに満足げな笑顔を向ける娘の頭を撫でる彼。
「すごいですよ、ほとんど娘さんが自分でやったんですから。まあその分、味は…」と言いづらそうにする弟子に、彼は「いいんだ、まだ4歳なんだから。それに君が手伝ってくれたんだろう、なら安心じゃないか」と言った。彼女はその様子を苦笑いしながら見つめつつ、パスタを仕上げた。

 パーティーが始まる。

 フルコースの料理と「ハト」が机に並んでいる。4歳の娘は、一つずつお上品に出てくるよりも沢山並んでいる方が喜ぶと考えた彼女のアイデアだった。それでも、彼は順番に一つずつ口にしていった。アペリティーボは、白葡萄ジュースに少量のりんごとレモンとライムを加えたサングリア風ノンアルコールジュース。パパと同じが良いというお年頃な娘のいる彼には、これがちょうどよかった。まだ、娘にはアルコールを飲ませるわけにはいかない。続いて、ストゥッツイーノと行こうとしたが、娘はすでに様々なものを食べようとしているのに目を向けて、たまには違う順番もいいかもしれないと思い始めた。それでも、次に食べたのはブルスケッタ。なるほど、これは腕を上げたなと弟子の成長に関心をしていると、娘が彼を引き戻した。「パパ、これ食べて」と娘自身が作った「ハト」を差し出してきた。嬉しそうな顔で見つめる娘に進められるままに、背徳感を感じながら娘の初イタリアンを口に運んだ。
 これは、と思った。こんなにも美味しい料理は食べたことなかった。
 これだ、と思った。彼女の作った世界一と称されたアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノに混ぜ合わせてみたくなった。彼は夢中になって、ピッチョーネをパスタに入れて和えていた。
 緊張で手が震えて止まらなかった。口に入るまでの距離が、あんなにも長いものだと知ったのはあの時だった。ようやく口に入り、舌の上に乗り、噛み締めることができた。
 これだった。味は違うかもしれないけれど、間違いなかった。間違うはずがなかった。

 この衝撃。幸せの感覚。師匠が出してくれた時の、あの感覚。

 彼は気づいた。娘の拙い味かもしれないが、弟子は少し顔をしかめる出来かもしれないが、自分が求めていたものは、これだったのだと。自分は、あの時なんでもいいから食べて食べてここの料理を自分のものにしてやろうと考えていた。それが、いつの間にか、同じものを追い続けていく中でこれは違うとばかり思っていたのが、よくなかった。きっと同じ味のものもあったのだろう。自分で自分ができるはずがないと思うようになっていたんだ。結局、作る自分よりも食べる自分がなっていなかった。

 「パパ、それおいしい?」と娘が聞いてきたので、彼は「おいしいよ」と答えた。彼女も「私も気になる」と手を伸ばしてきた。実際に食べてみて娘は大きい瞳を少し細くしたが、彼女は、あら、ちゃんとすれば意外といけるんじゃない?と言っていた。
 彼は、弟子を呼んで告げた。
 「これ、新メニューにしようよ」
 味見をしていた弟子たちは当然に驚いた顔をしていた。弟子は思わず「本当に言ってますか」と尋ねたら、「ああ、いいんだ。私のお気に入りだ」と自信を持って答えた。

 その後に彼は、なぜハトなのかを聞いて、彼女から事情の説明を受けると、水族館に行った時のことを心配をして、リストランテは盛大な笑い声に包まれた。

*ーー*ーー*

「ここはね、君の名前と同じで、みんなが集まる場所って意味なんだ。いつでも戻っておいで。結婚おめでとう」とずらした眼鏡を戻し手紙を閉じながら父は言った。

彼は「まさに言っていたもんな」と大きな口を開けて笑っていた。
娘は彼の腕を叩き盛大に涙しながら顔を赤くしていた。


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