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自分をうけいれること

最近、私は自己受容にハマっている。
ハマっている、という言葉は好きじゃない。

だが、どんな状態の自分でもそれでいいと思えるようになりたくて、自己受容の音声を繰り返し聴いている。
これはハマっていると言わざるを得ないだろう。

……いや、目覚めたのだとカッコよく書いておく。

嫌いな人というのはいまのところいないのだが、苦手な人はいる。
苦手な人というのは、自分の心がかき乱される人だと思っていて。
例えばTwitterなんかで、自己理解関係の発言をするフォロワーさんに対し、イラッと、モヤッとしてしまうことがある。

その人にモヤッとするのは、私自身の問題の現実化だと考えている。強い口調で意見を言われることで口を塞がれる恐怖、あるいはマウントの意識かもしれない。

そうすると、やっぱり自分を否定しがちになるわけで。
そして、「否定してはいけない」→「あっ、否定してはいけないと思ってはいけない」という風に、雪だるま式に否定が膨らむ。

膨れ上がる自己否定の元は不安や怖れ。
外界が示す「あるべき基準」を満たさないことに対しての、根強い他人軸から来る否定感。

自己否定を断ち切るために必要なもの。

それは曖昧さ。


どちらでもよい。
生き急ぐのものんびり生きるのも。
頭が良いのも悪いのも。


自分のことをダメだと思い厳しくなるのも、
自分のことを優しく認めるのも。
自己否定でも自己肯定でもどちらでもよい。

どちらでもよいと思えるのが、自己受容なんだな、と。


そう思え始めたら、失敗や努力に対して柔軟になってきた気がする。
少しづつだけど。

すごい偉そうに書いてる気がするけど、気づいてる人はとっくに気づいてること。
それにようやく気づくようになった。

それが、とても嬉しく思える。

自己受容があってこその、人それぞれの個性や能力がうまく噛み合うように世界はなっているかんじがするから。


自己否定をしても、また戻ればいいと感じる。



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