【短編小説】フラッシュモブ保険
「この度は大変でしたね」
「はい……けど、めでたい事でもありますからね」
保険屋の言葉に僕はなんとか笑顔を見せた。
もしものための保険。
まさか人生で最初の保険請求がこのような形になるとは思ってもみなかった。
「では、その日の事をお聞かせ願えますか?」
「……はい」
保険屋に促され、僕はゆっくりと話し始める。
「あれは職場での出来事でした。
仕事も一段落した昼過ぎ。
僕は同僚と談笑していました。
今思えばそのとき気がつくべきでした。
同僚たちの様子がいつもとは違うことに。
どこかそわそわして、僕の話にも上の空だったのです。
壁にかけられた時計の針がちょうど15時を指したときでした。
突然、どこからともなくリズミカルな曲が流れ始めたのです。
はじめは誰かのスマホが鳴っているのかと思いましたが、それにしては音が大きい。
誰か注意しないのか。
そう思った瞬間、部長が立ち上がりました。
ほら見た事か。
僕は部長の長い説教を覚悟し、憂鬱な気持ちになりました。
ところがです。
あろうことか、流れる曲に合わせて部長が踊り出したのです。
薄くなった髪を振り乱して踊り狂う部長。
後にも先にもあんなに激しい部長の動きは見たことがありませんでした。
僕は呆気に取られて固まっていましたが、すぐに課長が驚いた様に部長の元へ駆け寄ります。
そしたらどうなったと思います?
はは、あなたに聞くのもおかしな話ですよね。
課長も踊り始めたんですよ。
部長と一糸乱れぬ振り付けでした。
私は驚きに驚きを重ねて完全に硬直していましたが、もちろんこれだけで終わりません。
続いて係長が、先輩が、同僚が、後輩が。
その部屋にいたみんなが所狭しと踊り始めるではありませんか。
気づけばその部屋で踊っていなかったのは僕と、そして当の二人だけでした。
そこで、僕はやっと気がついたんですよ。
あ。これはフラッシュモブだ。
これから彼は彼女にプロポーズするんだ、とね」
そこまで話し終えて僕は目の前置かれたお茶に口をつける。
いつの間にか喉はカラカラだった。
「……それで、あなたはどうされたのですか?」
保険屋の落ち着いた声で尋ねられ、僕は答えた。
「ええ……もちろん僕も踊りましたよ」
僕の言葉に保険屋はわずかに目を細めた。
「だって祝ってやりたいじゃないですか。
君たちはみんなから祝福されているんだと、彼らに伝えてあげたかった。
……いや、それは建前かもしれませんね。
もう今年60になる部長が目を血走らせて踊っているんです。
そんな中、僕一人だけが座って見ていられますか?
踊るしかないじゃないですか。
たとえ僕だけが事前に何も知らされてなかったとしても。
全く振り付けを知らなかったとしても、ね。
……そこから先のことは正直よく覚えていません。
無我夢中でしたからね。
これまでの人生で一度もしたことのない様なポーズをたくさんとった様な気がします。
同僚たちは『いいアドリブだった』と褒めてくれました。
とてもいい笑顔でした。
プロポーズも成功していました。
二人とも泣いていました。
僕も泣いていました。
間違いなく人生で一番忘れられない一日になったと思います。
……以上が、その日僕の経験した出来事になります」
僕は話し終えると深く息をついた。
いつの間にか額は汗でびっしょりと濡れていた。
保険屋はゆっくりと頷き、変わらぬ落ち着いた声で言った。
「ご説明、ありがとうございました。
大変、辛い想いをされたんですね。
フラッシュモブ保険、有責です。保険金をお支払いします。
これであなたの心の傷が少しでも癒えることを願います」
書類に保険屋がサインと印鑑を押す。
フラッシュモブ保険。
冗談のつもりで加入していたが、まさか請求することになるとは。
「保険金は後日、口座へ振り込みますので」
「ありがとうございます。これで二人に結婚祝いでも買ってやろうかと思います」
今度こそしっかりと自分の意志で祝福してやるつもりだ。
僕を送り出す際に保険屋は再び頭を下げて言った。
「またこの様な事があればご連絡ください」
恭しく頭を下げる保険屋に僕は笑って答えるのだった。
「もうこんな目に合うのは二度とごめんです」
✒あとがき
読んで下さってありがとうございました!
長台詞を書きたくなって、書きました!
なんと3か月ぶりの短編小説です。
ショートショートと比べて多少は起承転結を意識して書いています。
先日、友人がプロポーズに成功したらしいです。
おめでとう。たくさん幸せになってね。
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