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短編小説「半月とクラゲ男」

ある日空を泳いでいたクラゲが僕を蝕んだので、僕はクラゲ男として一生を送ることになった。これによって僕は二本の腕の他に沢山の頭部から生えた触手を持つに至ったが、触手など地上に於いては只の飾りに過ぎない。

事の次第は単純で、僕は社会に対して二律背反的な猜疑心を抱えてビルの屋上に佇んでいた。瓶底を通して歪んだような月が浮かんでいた。忘我して月を眺めるうちに空に浮かんでいたクラゲが頑強な鉄帽子のように頭を覆って取れなくなってしまった。僕とクラゲは不可分に同化して現在に至る。つまるところ僕はクラゲでもあり僕でもある。幸いにしてクラゲは大した記憶など持ち合わせておらぬので、僕は凡そ僕である。


食餌に当たって僕はやはりにんげんの二本の腕を用い、触手の奥の口吻に食物を頬張るのだ。
その他の変化と言えば元来肉食(畜産肉)であったが魚を好むようになった。
魚は川魚より海魚を好む。
川魚は泥臭さに慣れない。薬味を使えば良いのだろうけれど、薬味を迂闊に使うと浸透圧の関係で僕のゼリー質に甚大な変化をもたらすので、なるべく控えている。
刺し身に使う山葵などは市販の安価なものは使わない。あれは西洋山葵に色粉をつけたものであるから、本物の山葵(本山葵)とは風味が異なる。やはり国産の本山葵が良い。それを使う分量だけ、その都度すりおろすのが良い。
おろし金を使うと山葵に金気が移るので魚介の味を損なう。金気のないポリエチレンのおろし器もあるが、本当に山葵を楽しみたいなら鮫皮が良い。

そもそもが僕自身、金属に触ると何処かしらむず痒くなる。

おろすコツは大根でも山葵でもさほど変わらない。組織が細かくなるほど風味が増す。辛味成分が植物油に溶解することで甘みを感じるようになる。細胞の結合を解すように多方向に力を入れながらゆっくりおろす。これを形容して「のの字」と言うが「の」である必要はない。前後にスライドさせるだけの単調なおろし方は組織の破砕が荒くなるため、尖った辛さばかりが鼻につく。宜しくない。

ある日のこと。
友人宅でホームパーティーをするというので、悪しからずお呼ばれした。顔の広い友人でパーティには土地で活動する音楽家や画家、ローカル紙の記者、カメラマン、小説家、商工組合の二世たち、若手の市会議員など。人が人を呼んで大勢が集まることになった。
僕もクラゲ人間であるから歴々の末席に名を連ねても役に不足はない、ように思う。だがクラゲであることを除けば僕はなんの取り柄もない人間であることを思い出し、暫く自尊心の喪失に苛まれながらも謙虚な気持ちでパーティに赴いた。
ホストである友人や奥方にアルコオルを勧められるので、はじめは丁重にお断りしていたのだが、次第にそれも心苦しくなり無色透明のものであれば問題なかろうとスピリッツの類をやりはじめた。ゼリー質に問題はなかったが、生身の部分の毛細血管が拡張して真っ赤に出来上がってしまった。
なんだ、これじゃ茹でダコだかクラゲだか分かりゃしない。なんて冗談を其処此処に言って回ったが、こう言った冗談は今日のゲスト達には通じないようであった。僕の冗談に誰も笑わないことに気付いて、会場の片隅で落ち込む。
会場の人々の注目はクラゲ人間である處の僕よりもブロッコリーマンに注がれていたことも加わり、すっかり気持ちが萎えてしまった。
お暇を告げようと友人に対峙すると、丁度友人と一緒にワインを飲んでいた女性を紹介された。(彼女の生業はローカル紙で記者をしている。僕はそれを人々の会話から小耳に挟んで知っていた。)

「こんにちは。はじめまして。」
と彼女は言った。

「こんにちは。はじめまして。」
と僕は言った。

握手を交わして彼女はチャーミングに微笑んだ。
海洋生物特有の直感で、僕は彼女と将来結婚することが分かったが彼女には黙っていた。

「あなたのこと取材したいわ」と彼女は言った。
「モチロン。承るよ。僕のゼリー質に誓って。」僕はそう答えた。

ある日のこと。
母親の容態が悪いと親戚から連絡を受けて、僕はD坂の病院に向かっていた。セルロイドを溶かしたような夏日であった。
水分が蒸発して乾涸びる、乾物になる、そんな心配は流石にないものの夏日は体調に芳しくない。病院に着いて水を貰った。
「真水と塩水はどちらが良いのかしら」と病院のクラークが言った。
「どちらでも」
僕は世間が思っている程、そんなにヤワではないよ。

精神安定薬を大量に投与されている母親は、虚ろな相貌でかつての美しさは見る影を無くした。母の母、またその母も発狂したというから、僕の家は発狂の家系なのだと言う。(僕もこのようにクラゲ男になったのだから、もはやどのような家系であっても驚くに値しない。)
ナタリー(新聞記者の彼女とはその後恋人同士になっていた)に会いたい。

ナタリーと言えば。
ナタリー・コールの唄う「モナ・リザ」が好きだ。その父であるナット・キング・コールの唄う「モナ・リザ」はもっと好きだ。
ナット・キング・コールは煙の燻るバーのステージでピアノを弾きながらモナ・リザを唄う。「モナ・リザ…モナ・リザ…」と始まるともう僕は狂わんばかりの郷愁に駆られる。誰しも故郷は音楽の中に。僕の故郷は「モナ・リザ」の黒い円盤の中にある。大きさばかりが目立つアナログなオーディオシステムから、訥々としたノイズが聞こえる。針が円盤に落ちた音。針が円盤を擦る音。そして始まるモナ・リザ。

クラゲ的嗜好によって僕には郷愁のピアニストが、深海のイマジナリーに癒着する。
その海域では深海にピアノが沈んでいた。ニューヨークに向かう大型客船が沈んだ時に、積み荷から流されたのだろう。ピアノは深海に沈んでいる。時折、海流がその琴線を震わせる。深海にピアノが鳴る。
そのピアノがクラゲ男である僕の憧憬であり故郷である。
二つのイメージが結びつき、ナット・キング・コールは深海でタキシードを着て、訥々とモナ・リザを唄う。
長い図体の深海魚たちがモナ・リザを聴いている。一張羅を着て揺蕩いながら、僕も。

レオナルド・ダ・ビンチのモナリザを見ながらスマイルの練習をしたことがあるよ。
クラゲ人間になるよりももっと前の話で、魅力的な人間になろうと意欲に燃えていた。少なくとも今よりか、は。現在は顔相というものが全きなくなってしまったので笑顔など作りようもないが、ゼリー質の艶であるとか、プルン、としたちょっとした仕草とか、そんなものに少しは気を使っている。と、ナタリーに話したら笑っていた。彼女の笑顔はチャーミングだ。ナタリーに会いたい。

思慕が募り、ある日僕は新聞社の前でナタリーの帰りを待っていた。定時に彼女は出てきたが、彼女の隣には部下の若い男が一緒だった。
男が冗談を言ってナタリーがそれに笑って、男の腕に腕を絡めた。
「あら」と僕に気付いて彼女は言った。
「ディナーに誘おうと思ったけれど帰るよ」と僕は言った。
ナタリーは何か言いかけたが、僕は踵を返してさっさと歩き出してしまったので、彼女の真意は知れない。なんてことはない、僕が単に子どもだってだけのことだ。年ばかり無駄に取って大人になることはできなかった。年ばかり無駄に取って手に入れたものはクラゲ的感受性、クラゲ的衝動だけだ。クラゲを手に入れたのも全き偶然なので、僕は何一つ自分の力で人生を積み上げることはできなかった、そう云うことなんだろう。

繁華街から少し外れた雑居ビルの地下へと続く階段を下りて何もかもが手狭なバーに入った。
バーは煙で燻っている。
「こんばんは」バーテンが慇懃に挨拶した。
「やあ」僕も挨拶を返した。

「おひとりですか?」
「そうだね。一人だ。」
「珍しい。」
「そうでもないさ」

「何をやりますか?」
「スピリッツを。何かある?」

「ジンはどうですか?ライムを付けますよ。」
「いいね。」

ほどなくして氷を入れたロックグラスが目の前に置かれた。グラスの縁に半月のようなライムが掛かっている。(僕はこの氷山のような光景が好きだ。もしかしたらクラゲ時代に見た光景なのかもしれない。それこそ北氷洋とか何処かで。極夜。終わらない夜。沈まない月。孤独の浮遊海月。)

目の前でジンが注がれる。
「ありがとう。」
グラスを手の平で回して氷を鳴らす。渇きを癒すように僕はジンを一息に仰いだ。

「大丈夫ですか?」バーテンが言った。
「大丈夫だよ。」僕は言った。
「乾いてるのさ。」

バーテンは再びグラスにジンを注いだ。
氷が鳴った。三半規管がズクズクと痛い。

「大丈夫ですか?」バーテンが言った。
「大丈夫だよ。」僕は言った。

再び僕はグラスを仰いだ。
ゼリー質の中でアルコオルが対流を作る。アルコオル毒が神経を麻痺させる。

僕のゼリー質はアルコールで浮腫んでいた。アルコオルで機能不全に陥って水分が循環できないのだ。
触手を触ってみた。ブヨブヨだった。何かに似ていると思ったら、ウイスキイ・グミ(グミをウィスキイに一昼夜漬けたもの)だ。こんなにだらしない酒の飲み方をして、僕は馬鹿だな。本当に馬鹿だ。
ゆっくりと僕は沈んでいく。眼前が暗く落ちていく。

深海でナット・キング・コールがモナ・リザを弾いている。それはきっと世界一恵まれた場所なのに、其処から遠く離れて僕は雑踏のアンダーグラウンドに揺蕩っている。何時まで経ってもこれでは海に還れない。

(短編小説「半月とクラゲ男」村崎懐炉)

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