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短編小説 霧の殺人鬼はレインコートを着ている

1
この街では誰もが霧の殺人鬼について話をする。 

初夏になるとこの街は。
初夏。夜の海は暗闇に沈んで単調なさざなみを繰り返す。延々繰り返される波に乗って沖合から重厚な霧が町に流れてくる。濃霧は夜毎、町全体をすっぽりと覆ってしまうのだ。じっとりと湿ってなおかつひんやりとした濃霧は足元をも隠すほど視界を遮る。あまりに霧が重厚なので、この街に来た旅行者などは自分が真綿に包まれたのではないかと錯覚を起こす。

真綿のような霧が真実、掴めるのではないかと何気なく手を伸ばすと、手が何か柔らかいものに触ってギョッとする。まさか本当に真綿ではあるまいかと思ったら目の前を歩く他所の人であった。
霧の中からその人のあっと驚いた顔が出て、目があって気不味い会釈を交わした。そんなちょっとの先も見えなくなる程、霧が、濃いのだ。

霧が濃い、という特徴以外に何も持たないこの街から人口は流出して街はいよいよ過疎になった。
港には老人たちが海を見ながら煙草をくゆらしている。かつての漁師たちのが見つめる視点は水平線に届くかと思えるほど遠い。彼らはそうして日がな一日、沖の鴎を数えているのだ。

その足元を猫たちが通り過ぎる。
どの猫も小さくて丸い。そんなものがあちこちにいる。隣接する街から猫を捨てに来るものがあるのだ。日向で猫がニャアと鳴いて顔を洗う。

この街では誰もが霧の殺人鬼について話をする。

2
殺されたのは若くて美しい男であった。
港の倉庫の中で天窓を背にして梁から首を吊っていた。
発見されたのは早朝で、通報されて警察が来るまでの間、その躯体は天窓から差し込む薄明に照らされてゆらりゆらりしていた。
華奢で蒼白の肉塊は支那から輸入された青磁のようであったので、まるで廃屋に吊るされたチャイナの風鈴が軒先に揺れているかのような光景であった、と発見者である倉庫番は語った。

彼は夜の港に立つ男娼であった。男娼であることは他の生業の者からすぐに知れた。しかし彼の氏素性まで知る者はいなかった。
警察は自殺として粛々と処理したが、この街の人々の間では彼はころされたのだという話になった。そして彼を殺したのは霧の中に潜む殺人鬼である、という話になった。

この街では誰もが霧の殺人鬼について話をする。
殺人鬼の正体については諸説があった。若い女というものもいれば、ホモセクシャルの紳士という話もあった。同じ生業の若い男とも、奇行の老婦人とも言われた。

そして人々は殺人鬼が繰り返すであろう猟奇的な犯行について話をした。港のバーにはウイスキーの愛好家たちが集まってスコッチをやっている。男たちは幾つかのシマを作って間接照明に背を向けてくぐもった声で話をしていた。
店内の音と言えば古いオーディオスピーカーから流れるジャズと、不意に、しかし一定のテンポでロックグラスの氷が溶けた涼やかな音がカランコロンと鳴っていた。
この店に来る男たちはみんな背中を丸めて無精髭を生やしている。何かを憚るようにコソコソと喋る。
カウンターの中では中年のマスターと若いバーテンが二人で働いていた。
彼らの背中には銀色のシェイカーが飾られていたが、客たちは慣習的にロックばかり飲むのでバーテンがシェイカーを振るのを見た者はいない。
店の二人ともそれなりの立ち振舞なので、頼めば瀟洒に氷の音を立てながらスコッチベースの古いカクテルを作るのだろう。

次の犯行は満月の晩に違いない。とウイスキーで赤ら顔になった縮れ毛の男が言った。再び若い男娼が殺されるのだ。

「そうかな。」
隣の頭が禿げ上がった赤ら顔が言った。俺はもっと間が空くと思うがね。

満月の夜っていいものさ。
満月の光を浴びながら外を散歩してみろよ。誰だっておかしくなっちまう。

それなら最初からおかしな奴はまともになるだろうよ。月の光で目が冷めらあ。

美しい首吊り死体を作りたいのならね、はじめに血抜きをしなきゃあならん。血があんまり残っていると死体は鬱血して黒くなるからね。死んだあとに斑紋が出やすい。首を吊る前に太腿の血管に管を挿せば良いんだよ。血がね、管を通して流れていくからね。血が抜けていくと肌が青く透けていくから、首を吊るのはそれからで良いのさ。

店内にはクールスタイルのジャズが流れていて、時折トランペットが高い音を鳴らしては男たちの話し声をかき消した。
丁度、曲が切り替わった。
チェット・ベイカーのサマータイム。

ウッドベースが背中を丸めた男たちに染みていく。男の背中を撫でるようにチェットのトランペットが鳴る。無性に夜は更けていく。

この街の誰もが。

3
あたしの彼は雨男で。
デートの時は決まって雨が降る。
はじめは二本であった傘がやがて一本になった。
はじめは彼の持っていた傘に、やがてあたしも手を重ねるようになった。
それはいつも右手に持っていたあたしの鞄が左手に移っていったという人生史上の瑣末な変化の軌跡でもある。

彼の匂いはいつも雨の湿度を含んでいた。彼の声は雨の日のノイズが混じる。
彼の瞳にはいつも雨の縦筋が映っていた。

ハスキーな声で彼はいつも「今日も雨だね」と囁く。
彼の言葉はいつも雨の中に消えていく。

だけど。
あたしは気付いてしまった。雨が多いのではなくて、彼に会えるのは雨の日しかない。雨でなければ彼は現れない。

「ごめん、今日は仕事が急に入ってしまって」
と、彼は電話をかけてくる。
思いもかけずに雨が止んで晴れてしまった日には。

デートの約束をしようとして「大丈夫、その日は空いてるよ」と彼が言った日の月間天気予報はいつも雨だ。

もしかしたら彼は実在しないんじゃないか。
雨が見せる幻で。

ある日彼が言った。
あたしの耳元で。

「霧の殺人鬼はレインコートを着ているよ」
上手に聞き取れなかったあたしは当惑して彼を振り返った。

「え?」

彼はもういなかった。
雨が上がったから。
海の上の雲間から光芒が指していた。
忽然と彼はいない。

4
夜の港に立つ男娼はゴシックなジャンパースカートを着てボンネットを被っていた。最近彼は恋人を無くした。
同じ男娼であった。どこからともなく現れて、いつしか一緒に暮らすようになった。
各々が夜通し「働いて」明け方帰宅した。
帰宅した彼らは一眠りするまで何も喋らない。先に帰った方が寝たふりをすることが通例だった。
夕方前に彼らは起きて夕食を共にした。

「仕事」の話はあまりしない。
最悪な客に当たった日だけ、セックスの内容を説明するが、特に盛り上がる話題ではなかった。

夕食を食べ終えると彼らは映画を一本観る。
古いロマンス映画が多かった。彼らは美しいロマンスにほっと溜息をついた。

夜食を食べてから彼らは一緒に港に出掛けて、街灯の下に一緒に立った。
どちらか片方に客が近寄ると「私達恋人同士なのよ」ともう片方を紹介した。「一緒に買ってくれても良いわ」

ある晩、そう言った言葉に「同意」した金持ちがいた。二人は初めて一緒に買われて金持ちと一緒に同衾した。

金持ちの家で二人は数日間を過ごした。
真夏のことだったので、三人は殆ど裸で過ごし、暑くなったらプールで泳いだ。
プールサイドにはいつもカンパリが冷えていた。氷の上に平皿を置いて夏の果実を盛り付けた。
二人はプールサイドで金持ちの両側に侍ってチェリーを食べさせた。
口移しで。
金持ちは二人のためにカンパリのカクテルを作った。カンパリのオレンジ色が夕日に透けていた。
プールサイドの遊びに飽きると三人は家の中でビリヤードに興じた。金持ちは紙巻きタバコをくゆらせてキューの狙いを定める。白球は複雑な反射角度で次々ボールをポケットに入れた。男娼である二人はビリヤードなんてやったことがなかったので隣で撞球を見ていた。魔法のようで見ているだけで充分楽しめた。
夜は三人で大きなベッドに寝た。ベッドは体が沈み込むほど柔らかかった。夜通し働く必要はなかった。眠りたいときに眠り、起きたいときに起きた。
二人は金持ちのことをもしかしたら愛していたが、去る日の夕方に金持ちのファミリーがバカンスから帰ってくるという理由で一方的に追い出された。
愛は幻想であった。夏日の幻であった。

それから一年経った初夏の日に彼は仕事を終えて早朝に帰宅した。
その日の客は船乗りで力強く彼は抱かれた。
帰宅した彼はシャワーを浴びて布団にもぐり、寝たふりをしながら恋人の帰宅を待ったが、恋人の帰宅は遅くヤキモキしながら本当に寝てしまった。

起きたのは昼であった。
単調に繰り返されるノックに目が覚めて、玄関を明けると警察から「お前の恋人は死んだのだ」と告げられた。恋人について知っていることを話せ、と。
この時、初めて男娼である彼は自分が恋人について何も知らないことを知った。恋人は自らのことをはぐらかすばかりで何も教えてなどくれなかった。時間はいくらでもあるから、と彼は気にしなかったが時間には限りがあった。愛は幻想であった。夏日の。

5
これは誰でも知っている話だが。港の五番街。時計店の路地裏にフォーチュンテラーの老婆がいる。そこらのインチキ占い師のように未来を読むのに水晶玉なんか使わない。瞳孔を覗くとその者の未来が見えるそうだ。

若い母親が乳児を連れて老婆を訪れた。
「この子の将来をみて下さい」

老婆は言った。
「この子は将来、幸せになるよ。」
母親は泣いて喜んだ。
老婆は皮膚に刻まれた皺の陰影を濃くして深いため息をついた。

翌日、母親の水死体が見つかった。

6
また別の話。港町に一人の画家が住んでいる。港を訪れた人たちに絵を売って暮らしていたが、到底売れないので道路に魚の絵を描くようになった。そうしたら猫が沢山集まるようになった。
画家は猫に囲まれて暮らしたという話。

7
船乗りの男は夜汽車のシートに身を沈めた。硬直した体が少しずつ解れていく。体の芯に凝り固まった疲労が汗腺から吹き出すようだった。体が重い。思考が重い。神経が重い。次第にその重量は心地良さに変わって微睡みに包まれる。
ああ、俺は疲れているんだな、と考えたのもそれきりで、忽ちのうちに船乗りの男は眠りに落ちた。

車掌がやって来て控えめなトーンで駅の名前を告げた。
港町の名前だった。それで船乗りの男は目を覚ました。

俺はここで降りるんだっけ?
体は幾分軽くなっていた。眠気を払いながら男は考えた。

そうだ。俺は此処で降りるんだな。
俺は船を探していたんだ。
なるべく遠くに行く船が良い。
港町には船の組合がある筈だ。俺はこの駅で降りて組合を訪ねるつもりだった。

ザックを肩にかけて男は夜汽車を降りた。
港町は未だに夜の中にあった。
男は暫く、気の向くままに夜道を歩いた。

シュウシュウと音がして辺りに霧が立ち込めた。触れると柔らかくて真綿のような霧だ。霧は忽ち男を包む。一寸先も見えなくなるような濃霧。足下も見えなくなるような濃霧の中、男は歩き続けた。


途中、鉦を打ちながら歩く葬列の人々と行き交った。人々は鉦を打ちながらブッダの経典を唱えていた。変則的なリズムの鉦に奇妙な節回しの詠唱が重なる。夜にこのような葬列など奇妙な風習もあるものだ。
すれ違う時にブッダ信徒に特有の抹香の匂いが鼻についた。

また暫く歩くと物狂いの女がいた。
「お前」
女が男を指さした。
「あたしのxxxをxxxしようったって、そうはさせないからね。そんなことしたら許さないからね。」
と呪詛を吐かれた。恐ろしいことである。
「お前に災いが降りかかれば良い!あたしの雨男がお前をーーー」
通り過ぎてから尚も女は喚いていた。

また暫く歩くと絵描きが地面に絵を描いていた。
「何の絵を描いているんだい?」
と船乗りの男は尋ねた。
「見りゃ分かるだろう?」
と絵描きは言ったが、辺りが暗かったので暗い地面に描かれたコンテの画は男には見えなかった。

男が目をつぶると尚も絵描きが路面にコンテを櫛る音がしていた。

ガリガリ

ガリガリ

その音は遠い深淵から聞こえて来るようであった。耳の中の渦巻管のもっと奥底から。
「薔薇だよ」と絵描きが言った。
「コイツは重大な問題だぞ」と男は思った。薔薇なのか猫なのか。コイツは重大な問題なんだ。

ガリガリ

ガリガリ

コンテが櫛る音が聞こえる。

ガリガリ

ガリガリ

霧の中でいつしかその音は雨となった。

「こんばんは」

驟々と降る雨の中から声がした。
雨が視界を遮っていた。男には声の主が分からない。

不穏な雨音が聴覚を、感覚を遮っていた。

その中で直接心に響くかのようにその声だけははっきりと聞こえる。囁くような。掠れた声。

「こんばんは。」

辺りを見回した。気付かぬうちに霧の中にの男が立っていた。掠れた声で男は言った。

「霧の殺人鬼はレインコートを着ているよ。」

突然にして霧雨が豪雨に変わった。

豪雨の中で二人は対峙していた。

「あなたはどなたですか?」
と船乗りの男は言った。
「凄い雨が降りますね」

雨の男は答えなかった。
豪雨は視界を遮断して表情も見えない。

「船を探しているんです。俺は船乗りでーーー」
雨の男は応えない。船乗りの問いかけに対して微笑んでいるようでもあったし、怒っているようでもあった。

「夜汽車に乗ってこの町に着きました。遠い異国へと行きたいのです。船に乗って様々な町を訪れたいのです。」

「異国の町に行く船を知りませんか」

問いかけながら男は段々と不安になった。
本当に俺は船乗りだったか?
海上都市の端から端を航海したのは現のことであったろうか。

「船を探しているんですーーー」

「異国の町のことを知っていますか?かつての船乗りであった老人たちが、港で煙草をふかしながら水平線を見つめているのです。彼らは昔からの習慣で沖合にいる鴎の数を数えているんです。」

男は話をしながら不安になった。本当に俺は異国の町について話をしているんだろうか?

「猫が沢山いるんです。本物のーーー」

「本物の猫ですよ。どの猫も丸々として可愛いーーー」

「異国の猫の鳴き声を知っていますか。ニャアニャア。」
男の声は雨に反響していた。沢山の猫が一斉に鳴き出したかのようだ。

「ニャーニャー」

「ニャーニャー」

「ニャーニャー」

不安を帯びていた。
ニャーニャー鳴くのは猫であったろうか。
足下に蹲る生き物たちは果たして本当にニャーニャーと泣いていたのだろうか。
猫であったのか薔薇であったのか、それが問題だ。

突如雨が止んだ。

船乗りの男は薄明の中にいた。

よく見れば
人物だと思っていたものは波止場の杭であった。

絵描きも物狂いの女も、雨の男も、周囲には誰もいなかった。

8
少し前の話。港に住む画家は男娼に頼まれて道路に薔薇の画を描いた。恋人に捧げたいのだ、と男娼は言った。画家は画を描いたが、その男娼は画を見ることもなく翌朝に倉庫で死んだ。
薔薇は雨に流れて跡形もなく消えた。
絵描きは異国に旅立った。

霧が濃くなってきたな。この町の霧は深いのだ。霧の中にいると段々とぼんやりしてきて、さ。それもまた良いものさ。そんなときに霧の殺人鬼はお前の背後に潜むのだ。息を殺して。

赤ら顔の男がロックグラスを傾けた。
カラン。
と、氷が鳴った。

この町では誰もが霧の殺人鬼について話をする。

(短編小説「霧の殺人鬼はレインコートを着ている」村崎懐炉)