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『七つの前屈』ep. 未処方硲「薬要らずの健康体~侵せ、毒。~」③

3.


「おい! この会社に泥棒がいるぞ!」


 理不尽なクレームや不明瞭な指令が飛び交う薬品会社のオフィスに、ひときわ大きな怒号が響く。声の主は、四十代後半と思しき恰幅の良い男性。



 富所外歪炉。ふところげわいろ。薬品会社『アクタボン』専務。


「だれだ、わしの大事な書類を盗みおった阿呆は!」


 苛々を隠そうともしない口調で、目をぎらぎらと血走らせながら、営業課のオフィスを舐めるように見渡している。どうやら、彼の管理する薬品の在庫を明記した資料が、手元からなくなってしまったらしい。


「お前か!」「貴様、いま目を逸らしたな。怪しいぞ!」「おい、さっさと名乗り出らんとクビにするぞ!」


 目につく人間、次から次へと、謂れのない濡れ衣を着せにかかる。


 普段は温厚な好々爺を演じている富所外ではあるが、どうやら相当動揺してしまっているらしく、その過激な本性を隠そうともしない。


 資料がなくなればすぐに身内の仕業だ、と決めつけてかかる姿勢がそもそも、出世の為にあらゆる手練手管を酷使してきた彼の業の深さを物語ってはいるのだが。


「政宜館くん、まさかきみではあるまいな!」


「わたしは知りません。泥棒なんて、許せませんね」


 そんな欲望に塗れた怒号が、未処方の元に近づいてくる。


 先ほど上司に指示され、専務に直接書類を渡しに行った彼だ、本来なら真っ先に疑われて然るべき──ではあるのだが。


「ならばきみか、諦くん!」


「ちょ、ちょっと、勘弁してください、ちがいますよお、専務!」


 濡れ衣の怒号は、ボーダーラインに触れることなく通過した。


 富所外歪炉の目は、未処方硲には向けられることなく、彼の部下の処へと移った。


「……まあ、やっぱりね」


 未処方は静かに呟く。わかりきっていたことだ。

 未処方硲は嫌われないし、疑われない。波風を立てない、矢面に立たない。


 学校でも、家庭でも。


「僕のことなんてみんな、どうでもいいんだろうなあ」


 彼の人生は、むかしからずっと、そんな感じだった。

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