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10年


おはよう
こんにちは
こんばんは



東日本大震災から10年が経ちました。


もう10年と思う人もいれば
まだ10年と思う人もいます


忘れたい人もいれば
忘れたくない人もいます


この'' 10年 ''への
価値観は人それぞれです



僕の地元は、福島県の国見町という所です。

東日本大震災の当時、僕は地元にいて17歳で高校2年生でした。

その日は、とってもお天気が良い日でした。

僕は、学校の期末テストが午前中に終わったので、友人とお昼ご飯を学校で食べた後、友人と良く行く学校の近くの古本屋さんにその日も行きました。
いつもの様に立ち読みをしたり、気になる本を買ったりしました。

その後は、立ってるのが疲れたので、コープマートというスーパーとドラッグストア兼用の様なお店に行き、お店の中の休憩スペースで友人と座りながら、さっき買った古本を読んだり、何気ない会話で笑ったりしました。

その何気ない日常が僕の幸せで癒しでした。
その日は、お天気も良かったので、その想いは倍に感じてました。

そんな時です。

休憩スペースで笑いながら友人とお喋りしていた時、小さく揺れました。

僕と友人は『 地震かぁ 』という小さな思いしかなかったです。
ですが、その思いは直ぐに撤回され『 物凄く怖い 』に変わりました。

その揺れがずっと続いたからです。
そうして、小さな揺れが徐々に大きくなり、あっという間に強く大きい揺れに変わりました。

僕と友人は、地震の真の怖さを人生初めて突きつけられて、休憩スペースの座ってた椅子から立つことが出来ず、まるでお尻が椅子にくっついてしまったかの様なそんな状況でした。
余りの怖さに声も出せず、動く事も出来ず、感覚としてはまるで時が止まったかの様でした。

そんな状況で自分ではどうしようもない時に、

『 何ボケッとしてんの!
早く立って出て!』

おばちゃんが怒鳴ってくれました。

それをきっかけにやっと体が動きました。

動いたのですが、強い揺れと本当に怖かったのが相まって足がガクガクで思うように走る事が出来ず、それでも頑張ってお店の外に出ました。

僕と友人が外に出て、1分もしない内にさっきまでいた休憩スペース辺りの屋根が壊れました。

僕と友人は声が出ない程、あそこにずっといたら潰れていたかもしれなかった恐怖とあの時に声をかけられて良かったと安堵他にも複雑な感情でいっぱいいっぱいでした。
中でも、恐怖は断トツの感情でした。

良く周りを見れるようになって見たら、コープマートの駐車場のコンクリートの地面は大きな亀裂が幾つかありました。

その後は、さっきまでポカポカの良いお天気だったのに雪がチラチラと降ってきて、次第に吹雪に変わりました。

田舎の学校は都会とは違い
自転車で1時間、駅から1時間、家から歩いて1時間、バスで1時間、車で1時間
30分から1時間、もしくはそれ以上なんて当たり前です。

友人はバスで30分以上、僕は車で30分程でした。

ですがその日は、いつもの様にはいきませんでした。

地震と吹雪と道路のコンクリートの亀裂、電線が切れたり様々な事があり、道路は渋滞、電話で連絡したくても中々繋がらない
不安で心が壊れちゃいそうでした。

友人のバスが来るのを2時間くらい待った気がします。
友人がバスに乗るのを見送り、僕は家に電話しても繋がらないので歩いて帰えりました。
3時間程かかって家に着きました。

瓦屋根造りの古い家で、瓦屋根の半分くらい、もしくはそれ以上の瓦が落ちてました。
家自体は潰れたり壊れたりはほぼしてませんでした。

電線が切れたりしてたので、停電して、断水もしてました。

その後しばらくは、皆んな学校や仕事には行けず、食料や日用品やガソリンの確保で手一杯でした。

ある日、停電や断水が終わり、やっとTVが見れるようになり、ガソリンも徐々に手に入るようになった頃に、母が津波もあった宮城県の方へ連れてってくれました。

それまでは僕と僕の妹と弟は酷い体験をしたと、『 自分だけ 』という自己中心な恐怖を抱いていました。

しかし、地震と津波があった現場を初めて自分の目で見た時にその考えは消えました。

自分だけじゃない

直ぐにそう思いました。



あの災害で当時の被災者達は、多くの事を学び考え想いました。



こうやって文章にしてしまうと簡単に伝えてしまっている様に感じます。

きっとそれは僕がまだまだ言葉足らずの言葉の使い方が足らないからです。

伝えたい事はこんなもんじゃないです。

でも、今日の僕にはここまでです。



あれから

もう10年なのか、まだ10年なのか



僕は一生忘れられません



以上.

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