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はずかしい

恥ずかしがってる場合ではない!恥ずかしがらずに前へ出よう!
というように、恥ずかしいという感情は乗り越えるべきものというイメージがある。自分が理想とするあるべき姿とのキャップを自認した時に生まれる負の感情。これは自分に向かう恥ずかしさだ。

一方で、他者に向かう恥ずかしさもある。恥を知れ!という言葉はこれにあたる。社会人としてのあるべき姿とのギャップを自認すべき、他者のために自分を律すべしということだろうか。恥ずかしさという言葉には、持つべきものであるというポジティブな意味もあるようだ。

恥ずかしいという感情は、主に他者との関わりの中で生まれるものだと思う。ひとりでいる時に恥ずかしいと感じることがあってもそれはきっと他者を背景にしている。誰の目をどのように気にするのか。自分のためなのか他者のためなのか。自分を守るのか。他者を守るのか。正も負も含めて恥ずかしいという言葉はケアのベクトルを持っているように思う。

ケアと逆ベクトルを持つのは教育(成長)だ。ケアと成長の綱引きはどちらが勝ってもいけない。
自分に対する恥ずかしさを感じた時、それは自分の何を守ろうとしているのだろうか。それをよく見みてみることが、どちら側に綱を手繰り寄せたら良いのかのヒントになるように思う。

ここまでの話は、恥ずかしさを感じる人を前提にしている。
では、恥ずかしさを感じない自己とはどのようなものだろうか。自分の中に確固たる価値観が確立された時、人は自分に向かう恥ずかしさから逃れることができるようだ。それはきっと自信という言葉で表現されるものに近い。

しかし、自分の価値観というものは他者の価値観から逃れることはできない。他者の価値観があるからこそ自分の価値観がこれだと言えるような構造になっている。ここがきっとポイントで自分の価値観が独立したものだと誤認し始めると恥なき自己が暴走し始める。相互に補い合うものだという認識がある場合に、恥ずかしさらから逃れた自信を持つ強さが、他者を守る力にもなっていくのではないだろうか。

年齢を重ね経験を積むと、恥ずかしいという感覚がなくなっていくように感じる。それは他者を守る強さなのか、それとも他者を引き離す強さなのか。恥ずかしくない自分になってしまうことは、とても恥ずかしいことなのかもしれない。


哲学対話の気づきメモ。
哲学対話の場には恥ずかしさを和らげる力がある。最初は恥ずかしさや緊張感がありながらも次第にそれは和らいでいく。おそらく他者の声をよく聞こうとするからだろう。他者を守る強さを対話を通して手に入れているんだと思う。


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