暗い海

『ローランの遺体』


本作品は、短編小説集『クジラ姫と悪質電波』の中の一作品となります。

クジラ姫と悪質電波
 -追憶の浜辺 
 -ローランの遺体
 -クジラ姫と悪質電波


テーマ:狂気


 皇帝、甥を探し求めて行きしとき、
 野中に、いと多き草、花咲けるを見る。
 その花すべて、われらの武将の血にて朱し!
 帝、憐れみ抱き、涙せざるを得ず。
 
  作者不明『ロランの歌』(有永弘人訳)


一章 死体

 最近はよく空クジラが座礁するという。
 実際、僕もこないだ、浜辺に座礁した空クジラを見た。それは土曜日のできごとだった。僕は車で買い物に出かけていて、その帰りに浜辺の近くを通ったのだ。よく通る道路だったので、浜辺に20人ほどの人だかりができているのはすぐ気が付いた。海水浴のシーズンでもないし、明らかに人々は何かを囲っているようだったからだ。興味が沸いたので、浜辺の近くに車を停めて、そこへ行ってみた。
 彼らが取り囲んでいたのは、死んだ空クジラだった。
 僕は人だかりに交じり、遠目から空クジラの死体を眺めた。体長は5mほどで、半透明の皮膚は未だにみずみずしさを保っていた。まるでクラゲのような皮膚だ。あたりには生臭いような、不快なにおいが漂っていた。死んだばかりの生き物が放つような、独特のにおいだ。
 僕は音もなく息を呑みこんだ。座礁したばかりの、死んだ空クジラを目にしたのは初めてだった。それは生気を失った瞳で虚空を見つめていた。その目は平坦で、奥行きがなかった。もはやそれは生物から物体と化していた。誰の目から見ても、それが死んでいることは明らかだった。
 人々は顔をしかめながら、スマートフォンで写真を取ったり、小さな声でひそひそと話をしたりしていた。その場の空気は不吉な予感を孕んでいた。人々は――地元の住人たちは、空クジラが浜辺で息絶えるということに違和感を覚えているはずだ。僕もその一人だった。
 僕は人だかりに交じりながら、空クジラの死体を眺めていた。それは間違いなく空クジラだった。透き通った皮膚に入り込んだ光が、体の中で鈍く反射していた。その体はまるで水が不思議な力で形を保っているかのように見えた。
 空クジラとは、空を浮遊する半透明の生物のことだ。外見はクジラにそっくりだが、皮膚が透けている。臓器も一見するだけでは視認することができない。しかし、よく見てみると、うっすらと内臓や骨を確認することができる。彼らの生態はほとんど明らかになっていない。何を食べているのか、どういう原理で空を飛んでいるのか、まったく解明されていないのだ。というのも、彼らは死を迎えると、その体はすぐにちりとなってしまい、あっという間に分解されてしまうからだ。後には何も残らない。これでは解明のしようがない。
 その空クジラは、これもまた不思議な話なのだが、この街でしか目撃されていない。他の土地で発見されたという話は聞いたことがない。空クジラはこの街にのみ生息する特殊な生き物なのか、あるいはたまたま他の場所で見つかっていないだけなのか。いずれにせよ、空クジラはこの街の名物的な存在だった。直接目にする機会はそうそうない。ごくたまに、ふと空を見上げてみると、空を優雅に浮かぶ空クジラを目にすることができる。それを目的に来た観光客も、滞在中に目にすることができず、がっかりして帰ることもある。地元の人間もまれに発見できるといった程度だ。だが、一度でも空クジラを目撃すれば、その姿に、誰しもが心を揺さぶられることになる。それは空を飛ぶ、不思議なクジラだ。その生態は全く明らかになっていない。飛ぶ原理も、何を捕食しているのかも。
 だが、ここ最近、空クジラは不自然な死を遂げていた。彼らは空中を飛んで生活する生物だ。それなのに、空クジラは本物のクジラと同様に、浜辺に打ち上げられて、息絶えたのだ。そんなことは初めてだった。座礁した彼らの死体はスマートフォンで写真に撮られ、ネットニュースや情報番組に掲載された。街は全国から寄せられる問い合わせの対応に迫られたし、東京から様々な研究者がやってきてその原因究明を始めた。その不可解な死の理由は未だに明らかになっていないし、それはまだ続いていた。
目の前で、空クジラの死体が、太陽の光を鈍く反射させながら、ちりとなっていった。死体の分解が始まったのだ。体だったものは細かく崩れていき、風に運ばれて消えていった。
 それはある意味で、幻想的な光景だった。人々は顔を上げて、その細かいちりの行方を見守った。細かな皮膚組織はきらきらと光り、風に任せて飛ぶ綿毛のように、空中を漂っていった。空クジラの身体はゆっくりと失われていった。何人かの子供が、手を伸ばしてそのちりを取ろうと試みたが、彼らの親はそれを制止した。一人、うまくつかみ取った子がいたが、手のひらを開くと、そこにはもはや何も残ってはいなかった。それは溶けた粉雪のようにどこかへ行ってしまったのだ。
 やがて、その体はすっかり分解され、跡形もなくなった。いつのまにか生臭さも消えていた。まるでそこには最初から何もなかったかのように。今や目の前にあるのは、何の変哲もない砂浜だった。我々が今まで見つめていたものはどこに行ってしまったのだろう。野次馬はぼそぼそと何やらをつぶやきながら去っていった。人だかりは徐々に減っていった。僕はクジラの跡が残っている砂浜を見つめていた。
 空クジラが目の前で死に絶えたことで、僕の心は静かに揺さぶられていた。海の上に浮かぶ小舟のように、ほんのわずかだが波が強くなったせいで、それは激しく揺れた。僕は深く息をして、その波が静まるように努めた。
 気が付くと、空クジラのために集まっていた人だかりはすでになくなっていた。残っているのは僕を含めて二人だけだった。僕より少し身長の高い男性が、もの静かな視線を砂浜に注いでいた。見知らぬ男だった。繊細で端正な顔立ちをしていて、その雰囲気から、なんとなくではあるが知性の高さがうかがえた。おそらく地元の人間ではないのだろう、と僕は思った。チノパンに紺のシャツというかっこうをしていた。この場所でそんなかっこうをして浜辺をうろつく地元住民などいない。彼が何を考えているのか、その眼から察することはできなかった。僕は彼を残して駐車場に戻った。
 車で帰路を辿りながら、僕は空クジラのことを考えた。なぜ彼らが砂浜に打ち上げられているのか。どうして音もなく死に絶えていくのか。でも、どれだけ考えても僕にはわからなかった。そもそも、空クジラが座礁するという話は例がなかったはずだ。そのニュースを耳にしたのはこの一か月の間だけだ。動物学者も首をかしげていた。地元住民も心当たりはなかった。しかし、僕の知る限り、すでに四件の空クジラが不可解な死を遂げている。その死が何を意味しているのか、人々は必死に考えていた。でも、答えはでなかった。なぜなら、誰も空クジラのことを良く知らないし、空クジラも語りかけてはこないからだ。

二章 歌

 僕は高校教師で、世界史を教えている。大学を卒業してから六年が経つが、自分でもけっこうよく教えられていると思う。昔からものごとをわかりやすく説明することが得意な性分だった。生徒たちからもおおむね好評で、模試や定期試験ではみんないい点数を取れている。高校の授業で必要なことは、いかに勉強の下地を作ってあげるか、ということだ。そして、その下地を作るためには、知識をできるだけ楽しく、わかりやすく教えてあげなければならない。そうしなければ、いつまでたっても勉強の土台は作られず、生徒は苦しむことになる。そうならないように、僕たち教師側がある程度誘導してあげるのだ。
 例えば、僕はこんな教え方をする。そのとき、僕は中世ヨーロッパの文化を解説していた。説明の中で、『ローランの歌』という叙事詩が出てきた。これは試験にも出題される重要事項だ。これを覚えるために、ある程度印象を強くさせる必要がある。
「このローランという人物は、フランク王国のカール大帝の甥でした」と僕は言った。「ローランは優秀な人物で、カール大帝への忠義も厚かったので、王からかわいがられていました。そのため、王は彼に隊のしんがりを任せていました。みなさんはしんがりっていうのを知っていますか?」
 周りを見渡した。知っていそうな顔をしている生徒が一人いた。僕はその中の一人を指名した。
「部隊が逃走する際に、隊の一番後ろにいる役目のことです」と彼は言った。
「その通り」と僕は言った。「もちろん、このしんがりという言葉はテストには出ないので安心してください。ただ、これは当時の戦いにおいて大切な役目なんです。例えば部隊が敵から逃げるときって、その部隊は相手に背をむけますよね? つまり完全に無防備な状態で逃げるというわけなんです。そんな中、一番後ろにいるしんがりは、敵がどれくらい迫っているかを前の部隊に知らせたり、あるいは接近してくる敵を迎え撃ったりします。ただ、逃げながら戦うのでかなり不利です。しかも、しんがりが負けてしまったら部隊全体が危機に陥ります。そんな大事な役目をこのローランが請け負いました。それほどカール大帝は彼を信頼していて、彼本人も自信があったのです。ところが、ある戦いでしんがりを務めたローランが戦死してしまいました。戦争において、どんな英雄も命を落とす可能性があります。そのことを悲しみ、ひどく心を痛めたカール大帝は、部下に彼を悼む歌を作らせました。それがローランの歌です。この歌は、甥の死を悲しんだフランク王が作らせた歌だったのです」と僕は言った。「悲しい話ですよね。でも、当時の人たちは、ある人の存在を後世まで伝えるために、叙事詩を作ることがありました。詩は歌うことで多くの人に広めることができます。土地を超えて、世代を超えて。詩によって誰かを語り継ぐということは、その人に対する最大の敬意の表れなのです」
 僕がこうして説明している中、誰よりも熱心に僕の言葉を聞く生徒がいた。彼女の目は真剣で、そこから僕の言葉を一言も漏らすまいという意思がうかがえた。
 彼女は四組の篠崎千絵だ。世界史に強い関心があるらしく、いつも集中して授業を聞いている。僕の授業では寝ている人は少ないし、みんなけっこう真剣に聞いてくれているが、彼女は他の人より熱意を持って授業に臨んでいるようだった。授業が終わったあとに質問に来ることもあったし、わざわざ僕のいる研究室まで来ることもあった。
ある日のお昼休みのことだ。午前の授業を終えた僕は、歴史科目の研究室でお昼ご飯を食べていた。すると部屋に生徒が入ってきた。それは篠崎千絵だった。
「ごめんなさい、ご飯の邪魔しちゃって」と彼女は申し訳なさそうに言った。
「いいよ、ちょうど食べ終わるところだったんだ」、僕はそういって弁当箱を机の隅にやった。「どうしたんだい?」
 彼女は言いづらそうに言った。「実は……進路のことで、相談したいことがあったので」
 僕は少し驚いた。と言うのも、僕は彼女のクラス担任ではなかったからだ。そもそも今年の僕はクラスを担当していない。だからこうやって直接相談に来るというのは正直意外だった。
「わかった。君はどんな進路を希望しているの?」と僕は尋ねた。
 篠崎千絵は小さな声で、進路先の大学の名前を言った。それは難関の国立大学だった。例年ではうちの高校からはほんの数人しか行けないし、確か今年は0人だったはずだ。
「なるほどね」と僕は言った。「あの大学はセンター試験の点数配分が小さく、二次試験がメインだったはずだね。でも、センター試験の点数が低いと足切りされる可能性もあるから、油断はできない。難関大学だけど、いい大学だと思う。何より僕の母校だからね」
 彼女はうなずいた。「はい。そこに行きたいと思っているんですけど、正直不安で……」
僕は彼女から模試の他教科の点数を教えてもらった。その大学を目指している高校生の平均的点数より低かった。何より英語の点数が致命的だった。この大学の入試試験は英語が比較的簡単だから、これを落とすわけにはいかない。
「強化すべきは英語だね。国語は平均点で、数学はほどほど。今の勉強方法で不安なら、予備校に通うことを視野に入れてもいいかもしれない。ただ、世界史はずいぶん点数がいいね。長い論述問題が出題されるはずだけど、僕の授業だと論述対策まではしていない。自力で勉強したんだね」
 そう言うと、彼女は顔を赤くした。「いえ、先生の授業のおかげです。先生が担当じゃなかったら、ここまで良い点数は取れませんでした」
「ありがとう。進路の相談ということだけど、確かにもっと勉強を頑張る必要はある。ただ、正しい勉強を続ければ、十分届く範囲だよ」
 その後、しばらく勉強に関する話をして、彼女は帰っていった。おそらく、彼女は具体的なアドバイスというよりも、背中を押してほしかったのだと思う。篠崎千絵は賢く、大人びた女の子だから、この時期からしっかり勉強すれば問題ないだろう。僕は生徒個人に強い期待を寄せることはまずない。それは知らず知らずのうちに生徒へのプレッシャーになったり、僕自身へのストレスになったりしてしまう。だから一人一人の成績をあまり重視しない。それでも、僕は自分が篠崎千絵へ関心を寄せていることに気付かずにはいられなかった。でも、それはある意味、教師として幸せなことだと思う。個人的に応援したくなるような生徒を受け持つというのは、仕事へのやりがいにもつながるからだ。僕はもう何年もこの仕事を続けているが、生徒たちの成長を見守るというのは、どこかもどかしい思いがありつつも、楽しいことだった。

三章 情景

 秋が深まる時期になったが、空クジラの座礁が続いていた。今月だけでもう三件も発生していた。地元の漁師や通行人がクジラたちの死体を発見した。彼らが見つけたときには、空クジラはすでに死んでいた。彼らは死にゆくクジラたちを写真におさめた。ネットや新聞には彼らの写真が掲載されていた。写真の中にある空クジラは、一見すると生き物には見えなかった。
空クジラの遺体はわずかな時間で消滅してしまう。だから、クジラたちの座礁は発見された数よりも多く発生している可能性もある。我々の知らないうちにたくさんの空クジラが息絶えているかもしれないのだ。いったい何が彼らを死に至らしめているのだろうか。それは自然の摂理なのだろうか。あるいは人間による環境破壊の影響を色濃く受けた結果なのか。専門家たちは議論を重ね、あらゆる推論を組み立てていた。しかし、そのどれもが説得力に欠けていた。そして、僕はそれらが正解でないことは直感的に理解していた。おそらく、原因は他にあるはずなのだ。きっと現段階では論理的に説明できないような何かが。でも、それが何なのかはわからない。所詮僕はしがない高校教師だ。その原因を究明することなんてできやしないのだ。

 ある平日のことだった。時刻が夜の七時近くなったので、僕は仕事を終え、家に帰るための支度をすることにした。近いうちに行われる定期テストの案を学校で作っていたのだ。テスト作りは大変だった。難しすぎてもいけないし、簡単すぎてもいけない。だが、基本的には生徒に得点させることを目的に作成しなくてはならないのだ。難解なテストを出す必要は全くない。試験は生徒の理解を確かめるために存在するからだ。だから僕はその時間まで悩み続けたのだった。しかし、いい加減帰らなくてはならない。
 研究室を施錠し、荷物を持って学校を出た。教員用の駐車場へ向かう途中、篠崎千絵に会った。彼女は校門の前を歩いていた。
「お疲れ様です」と彼女は言った。
「お疲れ様」と僕は言った。「今まで勉強していたの?」
 彼女はうなずいた。大した子だ、と僕は思った。少し張り切り過ぎているのかもしれない。僕は彼女のことが心配になったが、その心配を頭から振り払うことにした。余計な考えは抱いてはいけない。
 それでも、僕は彼女にこんな提案をした。
「よかったら車で家まで送っていってあげるよ」
 本来、教員が生徒を車で送り届けることは禁じられている。理由はいろいろあるのだが、まあ面倒ごとが起こらないようにするためだ。
 彼女は少し迷った末に、「お願いします」と言った。僕は彼女を車に乗せた。彼女は助手席で小さく座り、腕の中でカバンを抱えた。そして、うかがうような目で車内を見回した。僕は車を発進させた。
「最近は、空クジラがよく座礁しているようだね」と僕は言った。「昔はそんなことなかったのにな」
「先生は、空クジラが飛んでいるところを見たことがあるんですか?」と彼女は聞いた。
「何度かある」と僕は答えた。「最初は小学生のころ。友だちの家で遊んだ帰りに、夕暮れの空に浮かんでいるのを見た。それ以降も何度か見ているよ。空クジラはけっこう僕の思い出になっている生き物なんだ。高校生のころは、好きな女の子と一緒にいるとき、偶然見たこともある。だから、そんな思い出深い生き物が、座礁して死んでしまうなんて、ちょっと悲しいな」
 篠崎千絵は何も言わなかった。彼女は何かを深く考え込んでいるようだった。彼女に思案の時間を与えて、その後に何かを話してもらえばよかったかもしれない。でも、そのときの僕には、語りたい言葉や思いがあった。僕はそれを誰でもいいから聞いてもらいたかった。
「僕はね、ときどき思うんだけど」と僕は言った。「あの空クジラって、この世の生き物ではないんじゃないか、って思うんだ。いや、確かに、空クジラはれっきとした生物だ。生態学的な研究は不十分だが、サンプルさえきちんと取れれば、研究は可能だ。でもね、あの透明な姿を見ていると、僕はまるで空クジラが、別の世界から来た不思議な存在に思えてくるんだ。篠崎さんはどう? そう思わない?」
 彼女は目を伏せて、少し考えた。「確かに、空クジラは珍しい生き物です。私も一度だけ見たことがあります。子どものころです。お母さんと一緒にいるとき」
「どうだった?」
「すごくきれいでした。夕方に見たんですけど、夕日がクジラの体に入り込んで、赤く反射していました。ガラスでできた造り物みたいでした。空クジラは気持ちよさそうに泳いでいました」
 僕はその光景を頭に思い描いた。それは確かに、綺麗な光景であったはずだ。この街で生まれ育った人間であれば、心の中に空クジラの思い出を持っている。それはまるで夢が現実に出てきたみたいな情景だ。
 車の中は静かだった。そこに居心地の悪さはなかった。道路を走る車の音が僕らの耳に届いていた。篠崎千絵は窓の外を眺めていた。そこには夜の海があった。海は道路からの灯りを受けて黒々と広がっていた。その奥は深い闇に包まれていて、果てがなかった。
 だしぬけに僕は言った。
「僕は、空クジラが、誰かの手によって座礁させられているのではないか、と思っているんだ」
 篠崎千絵が僕の顔を見た。まるで不思議なものにでも出会ったかのように、目を細めていた。
「どうしてそう思うんですか?」と彼女は尋ねた。
 僕は両手でハンドルをしっかり握り、正面をまっすぐ見据えた。
「どうしてそう思うか? 正直なところ、確固たる根拠はない。テレビでも座礁の原因は自然環境の破壊だとか、あるいは偶然が重なった結果だとかの考えが主流だ。確かに、一時期人為的な害によるものだという意見もあったが、それは主観的な判断のみにとどまり、注目されなくなった」と僕は言って、言葉を切った。「でも、僕は思うんだ。重要視すべきは座礁の件数ではなく、どうして一時期から急に座礁が相次ぐようになったのか、という部分だ。いくらなんでもタイミングが良すぎる。自然環境が原因ならば、何も一時期に集中したりしない。もっと前からあってしかるべきだ。あるいは、明らかに環境的な要因が観測されるはずだ。でも、地元住民に発見されるようになったのはここ最近だから、発生時期に大きな偏りがあるんだ。そして、その偏りを説明できる要素は未だに発見されていない」
 黙って聞いていた篠崎千絵は、ゆっくりと口を開いた。
「でも、空クジラを座礁させているのがどこかの誰かだったら、どうしてそんなことをしているんでしょうか。いったいそんなことをして何が目的なんでしょうか」
「わからない」と僕は言った。「正直、見当もつかない」
 車内に沈黙が訪れた。
 そのとき、車は海岸近くの道路を走っていた。他の車はほとんど通っておらず、道は静かだった。僕はいつもの癖で、海の方に目を向けた。夜の海を眺めるのが好きだからだ。
「あっ」と僕は言った。ゆっくりとブレーキを踏み、車のスピードを落としてから、路肩に駐車した。そして、ドアを開けた。
「篠崎さん。出てごらん」
 僕たちは車から出た。目の前には夜の海が広がっていた。静かな波の音が聞こえ、ひんやりとした風を感じることができた。空には三日月が浮かんでいて、黄色くにぶい光を放っていた。そして、その光を受ける何かが空を飛んでいた。
 それは空クジラだった。生きた空クジラが夜空を泳いでいるのだ。
 それは、月の光を体にきらめかせて、ゆっくりと飛んでいた。空クジラははるか頭上で気持ちよさそうに、優雅に空を泳いでいた。まるで異世界のとある風景を目にしているようだ。
隣に目を向けると、篠崎千絵も顔を上げて、空クジラを見上げていた。彼女の横顔は、何かしら人を惹きつけるものがあった。そこには純粋な美しさがあった。僕はその姿に、図らずとも心を揺さぶられていた。それはある種の透明さによって写し出されるものだった。この子は大人びているように見える。だが、本当は、もっと純粋な心を持ち合わせているのかもしれない。
僕は彼女に幸せになってほしいと思った。この子は賢いが、あまりにも純粋さを持ち合わせ過ぎている。この汚れた世界で生きていくには、賢さ以外に、現実的な知恵と精神的な強靭さを持ち合わせていなくてはならない。僕は彼女がそれをできる限り早く手に入れて、この理不尽な世の中をたくましく生きて言ってもらいたいと感じた。
 その後、僕は篠崎千絵を家まで送った。僕が車で送ったということは秘密にしてほしい、と言うと、彼女はこくんとうなずいた。そして、僕は家に帰った。
 布団の中で、僕は考えていた。僕と篠崎千絵は生きた空クジラを目にした。しかし、その一方で、彼らは謎の死を遂げており、時々浜辺にその死体が打ち上げられる。仮に僕の考えが正しくて、誰かが故意に空クジラを座礁させていたとする。であれば、その人の目的はいったい何なのだろう。そして、どうやってクジラたちを座礁させているのだろう。僕の貧相な想像力ではわかるはずもなかったし、そもそもそうすることに何かメリットがあるとは思えなかった。でも、僕は個人的に、空クジラを殺めている誰かを許すことはできなかった。あんな罪もない動物たちをどうして殺すのか、僕には到底理解できなかった。
 そして、どうして自分がこんなにも空クジラという生き物に固執しているのだろう、と考えた。確かに、僕はこの土地で生まれて、育ち、何度か空クジラを実際に目にしてきた。それなりに愛着もある。だが、ここまで執着するというのも変な話だった。僕は空クジラの専門家でもなければ、動物愛護団体の関係者というわけでもない。ただの高校教師なのだ。それなのに、僕の頭にはいつも空クジラがいるのだ。

四章 遺体

 ある日の夜のことだった。僕は学校での仕事を終え、帰路についていた。いつものように、海岸沿いの道路を走っていた。僕は車を運転しながら、夜の海を眺めるのが好きだった。その日も横目で海を見ていた。
目の端に、何かが移った。それを発見できたのは偶然だと思う。普通ならば暗くて見逃していたはずだ。砂浜にうっすらと影が映っているのが見て取れたのだ。僕は息を呑んだ。まさか、と思って道路の端に車を停めた。そして砂浜に降りていった。
 空クジラがそこにいた。巨大な体が砂浜に横たわり、口を小さく開けて、死んでいた。その様子は以前、人だかりに交じって見た空クジラの死体とそっくり同じだった。しかし、一つだけ不可解な点があった。辺りには腐敗臭が広がっていたのだ。その臭いを確かに鼻で感じ取ることができた。この空クジラは腐っているのだ。でも、空クジラが腐敗するなんて聞いたことがなかった。だって、死んだらすぐにちりになってしまうのだから。この不思議な死は何を意味しているのだろうか。
 僕はクジラに近づき、その外見をよく観察してみた。一見すると普通の空クジラだが、よく見てみると、死がいの一部分が膨らんでいるのがわかった。体の中央部分が、まるで風船のようにぷっくりとふくれているのだ。腐敗によって発生したガスが溜まっているのかもしれない。確かに、普通のクジラが座礁して、死んだ体にガスが溜まるというのは聞いたことがある。そのガスによって、やがて膨らみが破裂して、あたりに腐った内臓と血液を飛び散らせるのだ。だが、空クジラにも同じようなことが起きるなんて聞いたことがなかった。おかしい。
 辺りには不穏な空気が漂っていた。僕は居心地が悪く感じた。自分はいてはいけない場所にいるのだ。見てはならないものを見ているのだ。
僕は今、異様な瞬間に立ち会っているのだ。
耳を澄ませると、聞こえるのは波の音、そして遠くから聞こえる車の音だけだ。夜の浜辺は暗く、道路から届く光でかろうじて周囲を見ることができた。ここはどこにでもある、普通の砂浜だった。それなのに、僕はいつもと違う、非日常に立たされている感じがした。
 僕は空クジラの腫瘍の部分をじっと見つめた。それは大きなふくらみで、人ひとり分くらいは簡単に潜り込んでいられそうなほどだった。今にも破裂しそうなほどぱんぱんだ。空クジラの皮膚は透明だから、そのふくらみの中には何もないように見えた。あるのは腐敗によるガスだけだと思った。
だが、そのふくらんだ部分が、唐突にぴくぴくと動いた。それは不自然な動きだった。ガスが溜まっただけではあんな風には動かない。何かがいるのだ。透明な皮膚に映らないような何かが、ふくらみの中でうごめいているのだ。僕は息を殺して、その光景を見ていた。これからいったい、何が起こるんだろうと思った。
 その不自然なうごめきが続いているとき、唐突に、膨らんだ部分から何かが突き出てきた。空クジラの厚い皮膚が破れて、あたりに体液が飛び散った。ぴしゃ、という水っぽい音が聞こえた。
そこから出てきたのは手だった。指があり、手首や肘の部分を見て取ることができた。その手は人間のものよりも二回りも大きく、黒かった。腕全体には濃い灰色の体毛が生えていた。爪は猛禽類のように鋭く、分厚い。その手の持ち主は人ではないようだった。しかし、僕の知っている動物に、あんな手を持っている生き物はいないはずだ。猿でも、猛禽類でもない。
やがて、空クジラの体の中にいるそれは、片方の腕の力で強引に皮膚を押し広げ、自分が出てくるのに十分な幅を作った。皮が新たに破れるのと同時に、ばしゃばしゃとクジラの体液が漏れ出て、砂の上に落ちていった。皮膚は相当硬くて厚いように見えたが、生き物の腕力は凄まじいらしく、たやすく穴を広げることができた。
 広げた部分から、頭が出てきた。黒々とした頭だった。それは暗い夜の中でかすかなシルエットしか確認できなかったが、間違いなく人ではないようだった。それはぬっと顔を出すと、そのまま上半身を空クジラの中からさらけ出し、自らの足を地面に下ろした。そして、その生き物は、二本の足でしっかりと、砂浜に降り立った。そこでようやく、その姿をしっかりと見て取ることができた。
 生き物の身体は空クジラの体液でぬめぬめとしていて、道路の方から届いている街灯の光が怪しく反射していた。それは人間に近い体を持っていたが、服は着ておらず、全くの裸だった。夜の浜辺に立ち、うつむき加減に頭を垂れていた。それは目をつむっていて、顔先から液体がぽたぽたと流れ落ちていた。
 そして、その生き物はゆっくりと顔を上げ、まぶたをあげた。何度か瞬きをして、気怠そうに首を曲げた。首筋の筋肉をほぐすように。その動作は人間のものにそっくりだった。まるで長い眠りから目覚めた人のような動きだった。
 そのとき、僕はその生き物からやや離れたところに立っていた。言葉を失い、身体が凍り付いていた。その場から動くことができなかったし、うまくものを考えることもできなかった。小さく口を開けて、目を見開いていた。僕の前に立っているそれは、不適当かもしれないが、いわゆる『怪物』としか思えなかった。
 怪物の身体は黒く短い毛に覆われていた。身体は大きく、三メートル近くはあるだろう。堂々たる体躯で、極めて筋肉質であり、至るところに筋肉の隆起が見受けられた。背筋はまっすぐで、その場に直立していた。その顔には鳥類を思わせるクチバシがあった。人間のような鼻はなく、二つの小さい穴がクチバシの上部分に開いていた。背中に巨大な翼を持っていて、今は小さく降り畳まれていた。
 化け物は鳥と人間の混合体のように見えた。首から下は人間に酷似しているが、顔は鳥類のそれだった。そして、怪物の目は氷のように冷たかった。動物のような、思考を伴わない瞳ではない。冷酷な人が持つ、容赦のない目だった。
 それは、ゆっくりと僕の方に体を向けた。そして、僕を見下ろした。
 僕の体は凍り付いていた。恐怖が全身を支配し、その場所に僕を縛り付けていた。逃げたほうがいいと思っても、体が動かなかった。怪物と視線が交わっていても、目をそらすこともできなかった。
 怪物は、ゆっくりと口を開けた。
「我が名は『ローランの遺体』なり」とその化け物は言った。化け物は低く落ち着いた声をしていた。それはある種の知性すら漂わせていた。ありとあらゆる知識を蓄え、熟成した思想を持ち合わせた老人のように。しかし、その声音からは至って意図や感情が読み取れなかった。
 ローランの遺体? と僕は思った。その名前は僕に不吉な予感を抱かせた。冷たい汗がこめかみの辺りを流れた。自分は今、邪悪な存在と相対しているのだ。僕は何も言えずに、目の前の怪物を見ていた。
「人間よ」
 怪物はそう言った。彼は僕に語りかけているのだ。
「これから、世界で幾度となく、悲哀を伴った破壊が行われるだろう。その破壊には絶望が含まれ、孤独が織り込まれ、狂気が漂っているだろう。覚えておくがいい。その破壊をもたらしたのはこの私だ。この私が、凄惨なる、ものの壊れをもたらしたのだ」
 僕はゆっくりと息をしていた。それなのに、心臓は鈍い音で早く鼓動していた。
 ものの壊れとは、いったいなんのことを言っているんだろう、と僕は思った。ものとは具体的に何を示しているのだろう。そして、なぜ彼が何かを破壊しなくてはならないのだろう。僕にはわけがわからなかった。この怪物は確かに悪の塊のような存在に感じるが、彼には知性があるはずだ。そうするには何かわけがあるはずなのだ。しかし、僕にはその理由がわからなかった。
 怪物は続けた。
「お前がその破壊を目にするたびに、あるいは耳にするたびに、我が名を思い出すがいい。繰り返そう。我が名は『ローランの遺体』なり。世界に破滅をもたらす存在である」
 怪物の羽が大きく開いた。そうするだけで空気が激しく震えた。その羽の色はカラスのように漆黒だった。ローランの遺体と名乗る怪物はその羽を使ってはばたいた。巨大な体はいともたやすく宙に浮いた。砂浜には強い風が巻き起こり、砂を舞い上がらせた。風は僕の顔を撫で、髪を動かした。
怪物はわずかな間、数メートルの高さで高度を維持していた。やがて、強いはばたきとともに、急に大きく飛び上がった。それは一瞬の出来事だった。怪物は巨体でありながら軽々と空を飛んでいった。そして、すぐに夜空に消えていった。気が付くと、その姿は空のどこにも認めることができなくなっていた。
 僕は一人、その場に立ち尽くしていた。まだそこから動き出すことができなかった。目の前では空クジラの遺体がゆっくりと分解されていった。それは無残に身体を裂かれ、ごみのように打ち捨てられていた。そして、かすかな腐敗のにおいを残しながら、淡い光の粒となって消えていった。しばらくすると、死んだ空クジラの体は浜辺からすっかり消失した。はじめからそこには何もなかったかのように。砂に彼の跡が残っているだけだった。
 僕は自分の右手をゆっくりと上げた。そうするには相当の力が必要だった。手のひらを見ると、自分がここにいるという実感を得ることができた。その手で自分の顔に触れた。僕は現実の世界にいるのだ。さっきまでの出来事は夢でも妄想でもない。実際に目の前で起こった事実なのだ。しかし、それを説明する証拠はどこにもなかった。化け物は空を飛んでいき、空クジラの死体は消え失せた。僕が見たということ以外、さっきまでの出来事を説明するものはなかった。
 息を大きく吸い込むと、足早に車の方に戻った。ここから去らなくては、と思った。エンジンを起動させて、ハンドルをしっかりと握り、アクセルを踏んで車を動かした。いつもしていることなのに、運転ということが慣れないもののように感じられた。
 家に着くと、急いで部屋の明かりをつけて、テレビの電源を入れた。静寂に耐えられなかったのだ。それからシャワーを浴びた。温かい水を浴びながら、自分の体が小刻みに震えていることに気付いた。僕はどうしようもなく恐怖していた。怖れは僕の心の奥深くまで侵していた。それを払拭することは現段階ではできなかった。シャワーから出ると、僕は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ほとんど一息でそれを飲んだ。そうしても、酔いはすぐには訪れなかった。僕は二本目のビールを両手で持ち、その冷たさを手のひらで感じた。しかし、その感触は別次元からやってきたかのように、現実味がなかった。僕はベッドに腰かけ、頭を抱えた。脳裏にある感情を整理しようと努めたが、その努力は実る気配はなかった。僕はさっき、今まで経験したことのないような異様な瞬間に立ち会わせたのだ。その事実は簡単に払拭できるものではない。
 僕は二本目のビールを無理やり飲み下すと、布団に潜り込み、強引に眠ろうとした。最初、眠りは簡単には訪れないだろうと思っていたが、ビールの酔いが回ってきたこともあり、ゆっくりと睡魔が意識を覆っていった。僕は逃げ込むように眠りの中に入っていった。夢のない、質の低い眠りだった。
 次の日、目覚めると、すでに自分の中には昨日のような動揺は残っていなかった。しかし、昨夜の出来事を少しでも思い出そうとすると、心臓のあたりに冷たく鋭い痛みのようなものを感じた。あの化け物が僕に与えた恐怖はいくらか小さいものになってはいたが、今でも確実に心の奥底に残っていた。
 昨日起こったことは、本当にあったことなのだ。しかし、それを証明できる者は僕以外にいない。その事実が僕の気持ちを不安定にさせた。
一人でいるとどうにかなってしまいそうだったので、僕は通常より早く学校へ向かった。野球部がグランドで朝の練習をしていて、気怠そうに声を出しながら体を動かしていた。生物教師の男が、日課としていた朝のランニングから帰ってきて、廊下で僕に「おはよう」と声をかけてきた。しばらくすると、生徒たちが次々と登校してきて、いつも通りの賑やかさが生まれた。それが僕の心をいくらか落ち着かせてくれた。生徒たちはくだらないことで騒ぎ、昨日のテレビがどうとか、youtubeがどうとかで盛り上がっていた。
 僕は自らを納得させなければならなかった。昨夜の出来事は現実ではないのだと。あれは幻覚か何かで、実際に起ったことではないのだと。そう思わないことには、学校という現実の世界にうまく自らをなじませることができなかった。僕は高校教師として、あるいは一人の大人として、ここでふるまわなくてはならないのだ。
 しかし、この学校にも異変があった。今日の世界史の授業に、篠崎千絵の姿がなかったのだ。彼女は僕の授業を欠席したことはなかった。彼女がいないというだけで、教室には言い難い空白感のようなものが生じていた。僕はいつものように授業をすることができなかった。授業中もちらちらと彼女の席を見てしまうのだ。僕は言いようのない不安に駆られた。大丈夫、彼女は体調を壊しただけなんだ。僕はそう考えた。問題ない。明日はきっと元気に登校してくれる。
 だが、次の日も彼女は授業を欠席した。その席に誰かが座ることはなかった。僕は他の生徒に、彼女はどうしたのか聞いた。彼らも事情をよく知らないという。体調不良か、それとも他の事情なのかもわからないらしい。
 彼女の欠席が続いた。二週間ほど経った後、彼女が高校を退学するという話を耳にした。家庭の事情ということらしいが、詳しい話はわからない。生徒の話によると、篠崎千絵は友人にも別れを言わなかったという。転校ということでもなく、ただ単に学校を去るとのことだ。教師陣も首を傾げたし、彼女のクラスの担任も対応に苦慮していた。彼も事実関係をうまく把握できていないという。それほど、篠崎千絵は唐突に学校に来なくなってしまったのだ。
 彼女の身に何が起こったのか、僕には想像もつかない。しかし、僕の頭に浮かぶのは、あのローランの遺体とかいう化け物だった。やつが彼女に何かしたのではないかと考えてしまうのだ。そうに違いない。だって、あいつは邪悪な存在なのだから。あの怪物は生まれてはならない生き物なのだから。でも、僕にはどうしようもなかった。
 僕は普段よりずっと多く、テレビや新聞に目を通した。世界に何か不自然なことが起こっていないか確認した。ローランの遺体はものの壊れをもたらすと言った。もしそれが本当であれば、彼はこの世界のどこかで、凄惨な破壊を繰り返しているはずなのだ。そして、それがいずれ人々の目に映り、耳に届くはずなのだ。
 しかし、テレビや新聞には、あの異様な化け物の姿は映らなかった。世間は通常の流れに沿って動いていた。政治家は不適当な発言を繰り返し、大物芸能人はセクハラで世の中からバッシングを受けていた。原子力発電所の停止をめぐって人々は議論していた。殺人事件も、当たり前のように、毎日のように、発生していた。世界ではテロが相次ぎ、軍隊がいたるところに空爆を行っていた。いつも通りの日常だった。
世界はいつも通りに動いていた。
 篠崎千絵が退学してから数か月が経った。僕は未だに、学校帰りに海辺の道路を通ることを習慣としていた。しかし、その目的は以前のものと異なっていた。僕は夜の海を眺めたいのではない。あの化け物を探しているのだ。ローランの遺体。そう名乗る怪物を見つけ出そうとしているのだ。もちろん、今でもあの日の夜のことを思い出すと、背筋が寒くなり、胃のあたりに重みを感じる。だが、あの化け物が現れたことで、何かが変わってしまったことは間違いないのだ。篠崎千絵は消え、僕自身も、よくわからない空白感のようなものを抱くようになった。あの化け物のせいだ。
 でも、どれだけ探しても、あの怪物は見つからなかった。
 あいつはどこにいったのだろう。僕は停止した車の中で、夜の海を見つめながら思った。あいつはこの世界のどこかにいるはずなのだ。そして、何か凄惨なる破壊をもたらしているのだ。きっと篠崎千絵もあいつの手にかかってしまったに違いない。空クジラの座礁は、あいつが生まれる前兆に過ぎなかったのだ。そして、それを誰も止められなかった。今、この世界には目に見えない、きわめて邪悪な怪物が存在する。それを知るのはこの僕だけなのだ。
 僕は、世界に向かって、そのことを大声で叫びたくなった。お前たちはなぜ気付かないのか、と。今、どこかに、あの化け物がいる。それはたくさんのものや人を破壊しているのだ。誰かがやつを止めなければ、誰かがそのことに気が付かなければ、すべてが手遅れになるんだ、と。でも、その叫びは自分の中に押しとどめておいた。この焦りや怒りは自分しか持っていないのだ。誰も僕に共感できないし、誰も僕を理解できないのだ。
 時間が経ち、冬の後半になると、学校の雰囲気は受験一色に染まった。生徒たちは寝る間を惜しんで勉強した。教師たちは時間の許す限り生徒の勉強を補助してやった。そんな感じが二か月ほど続いて、受験本番の時期になった。生徒たちはそれぞれが行きたいと願う大学へ受験しに行った。
 しかし、うちの受験生全体の結果はあまりよくなかった。上位の大学に進学した子の割合は去年より減少していた。また、篠崎千絵が目指していた大学に合格した生徒は、今年も0人だった。その大学に届きうる学力の者は数人いたはずだが、彼らの成長は途中で止まってしまったらしかった。教師陣はその理由に生徒の質の低下を挙げていた。一方で、二年生以下の在校生たちは、先輩たちの受験がうまくいかなったのは教師陣の指導力の低さが原因であるとして、半ばあきらめるような態度で授業に臨み始めた。新年度を迎えても、学校はどこかぎすぎすしたような空気が蔓延していた。
 それでも、僕は世界史を生徒たちに教え続けた。僕の話を真剣に聞く彼らを見ていると、篠崎千絵のことを思い出した。そして、あの怪物のことも思い出した。あの少女がいなくなってしまったのは、間違いなく、僕にとって『悲哀を伴った破壊』だった。

 五章 破壊

 夢を見た。
 それはあまりに現実味を帯びた夢だった。においや手足の感触をありありと感じることができるほどに。あるいは、それは夢という仮の形を保った何かだった。
 僕は浜辺にいた。空は真っ赤で、黄色い太陽が浮かんでいた。風はなく、空気には言いようのない重みがあった。息をするのも苦しくなるような空間だった。自分がいてはいけない場所にいる気がした。しかし、ここから立ち去ろうにも、僕はどこに行けばいいのか全くわからなかった。
 そして、浜辺にはおびただしい数の空クジラが座礁していた。砂浜の続く限り、彼らの死体が並んでいた。彼らはみんな死んでいるようだった。まだちりになっていないことから、死んで間もないということが見て取れる。しかし、一部のクジラの皮膚はまるで腐ったかのようにぐじゅぐじゅになっていた。腐乱していたのだ。それはあり得ないことだった。彼らの体は腐るはずがないのだ。彼らはあまりに尊く美しい存在であるから、腐敗するなどあってはならないことなのだ。しかし、実際の空クジラたちはむごたらしい死を遂げており、無数の腐乱死体が浜辺に打ち上げられていた。
 浜辺にいるのは僕と空クジラだけではなかった。黒い毛に覆われた怪物が、少し離れたところに立っていた。背が高く、堂々とした体躯(たいく)だ。それは『ローランの遺体』だった。彼は一人の人間の首を片手でつかみ、持ち上げていた。人間はその手をふりほどこうともがいていた。しかし、ふりほどくには怪物は大きすぎて、力が強すぎた。
 つかまれている人物は篠崎千絵だった。
 僕は彼女を助けに行こうと、その場から走り出そうとした。だが、突然砂が泥のように重くなり、僕の足に絡みついた。まるで沼に沈むように、両足がずぶずぶと砂に埋まっていってしまったのだ。必死に引き抜こうとしても無駄だった。足はすでに膝まで地面に飲み込まれていた。僕はそこから身動きが取れなくなった。
 僕は怒鳴った。なんと言ったのか、自分でもわからないが、とにかくローランの遺体がやろうとしていることを止めたかったのだ。でも、僕の声は響かなかった。僕の喉から音は出なかった。どれだけ叫んでも、どれだけ喉を震わせようとも、僕の声はどこにも届かなかった。
 やがて、怪物はもう片方の手を大きく引いた。そして、その手を篠崎千絵の腹に突き入れた。手は皮膚を突き破り、血が腹から噴き出した。篠崎千絵は苦痛のあまりのたうち回った。しかし、喉をつかまれているため、声をあげることができない。その手から逃れることもできない。
 ローランの遺体は手を引き抜いた。その手には彼女の腸の一部が握られていた。引き抜かれると同時に、篠崎千絵の体は暴れ回るのをやめた。それはぴくぴくと痙攣し始めた。腹部から大量の出血があった。化け物はつかんでいた臓物を手放すと、それが垂れて砂浜にまで届いた。それを伝って大量の血液が流れ落ちた。砂は彼女の血で赤く染まった。
 次に、怪物は彼女の体を力任せに地面に叩きつけた。その凄まじい力は砂浜を揺らすほどだった。その振動は浜辺を伝い、僕の足を通して全身に響いた。その揺れで僕の歯はかたかたと鳴った。ローランの遺体は一回のみならず、二回三回とそれを繰り返した。ドン、ドンという鈍い音が聞こえた。彼はまだそれを続けた。叩きつけるほどに、篠崎千絵の体は原型をなくしていった。全身の骨は折れ、腹部からはその他の内臓が飛び出した。へし折れた手足が、壊れたおもちゃのように、怪物の動きに合わせて奇妙に動いた。彼女はまだ生きているのかもわからなかった。
 怪物は叩きつけるのをやめようとはしなかった。
 夢の中で僕は叫んだ。それは言葉を伴わない、感情的な叫びだった。そして、それは喉を裂かんばかりの大声であるはずなのに、声は響かなかった。僕の口から音は発せられなかった。目の前の激しい暴力に対して、僕は叫ぶことすらできなかった。
 それでも、僕は声にならない声で叫び続けた。

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