落ちこぼれるか、優秀な羊エリートになるか

この世は落ちこぼれても地獄、優秀でも地獄だなと思うことが多いです。最近はこちらの本、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(石井光太著)を読んでいました。話題になった本なので読んだことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、(著者の)石井さんらしいかなり重い内容で、読み終わったあと「あぁ、日本終わった…」と思ってしまいました。テーマは「国語力」という少しわかりにくいものなのですが、言葉とコミュニケーション、人間性、道徳、倫理、良心、一般常識…といったつかみどころがないけれども非常に重要な問題を取り上げているように感じました。

家庭環境に問題があり、幼少期から親子のコミュニケーションが乏しいことなどが原因で、他人とのコミュニケーションがうまく取れなかったり、語彙力が足りないためにすぐ手が出てしまったり、他人の感情を感じることが苦手だったり、自分の思いを言葉で伝えられなかったり、一般常識的な文脈が理解できなかったり…といった子どもたち(ゆくゆくは大人になる)が増えているというような内容でした。そういった子は学力も伸びませんし、かといって早くから働こうとすると人間関係で躓いてしまい、場合によっては悪い仲間につかまり、犯罪に巻き込まれるようなこともあるようです。一方で、豊かな家庭で育った子どもたちは相変わらず優秀で、特に上記のような困難を抱えているということはない、ということでした。国の方針を決めるエリート官僚には落ちこぼれてしまう家庭の状況が理解できないのではないか、といったような考察もありました。

落ちこぼれてしまう人がいるのは問題だ、なんとかならないか、と思う一方で、かといって対照的に示されているエリートコースが良いのか、幸せかというとそういうわけでもないしなぁ…と頭を抱えてしまいました。幼少期から塾通い、成績争い…の結果、劣等感や優越感を抱えた歪んだ人間になるし、「優秀なエリート」の就く職業の定番である医師、法曹、官僚、メディア、企業の役員等というのは、この世の悪魔の温床でもあり、その悪魔の論理に従わなければ生きていけない世界でもあるからです。そのことは過去にせっかくの能力・才能が不正に使われる社会という記事にも書きました。落ちこぼれると反社、半グレ、犯罪者の世界に近づきますが、優秀なら優秀でこの世の悪魔的支配層の世界に近づいてしまいます。

この世は法治国家のふりをしていますが実際はそうではなく、悪いことをしても捕まらない人がいる、というのは皆さんよくご存じだろうと思います。支配層側のいわゆる上級国民と呼ばれる人々もそうですし、反社も警察や検察とつながっているので、水面下で色々な取引があるのでしょうね。一番弱いのはそのどちらでもない無知な一般市民で、一時停止不停止などの犯罪と言えるかもわからないような「罪」(違反)で切符を切られたりします。この世の多くを占める無知な一般市民が一番狙われていて、労働搾取されたり、犯罪の被害にあって泣き寝入りしたり、薬害で体調不良になったりしているというのが現状かと思います。

優秀なエリートも結局誰かもっと上の人の指示で動いているだけなので、自由はないですし(むしろ命がけ)、誰かを痛めつけたり苦しめたりして幸せになれるはずがないので結局は不幸です。落ちこぼれても、優秀なエリートになっても不幸。これが現実なのではないかと思います。なんだかんだ、一番自由があって、そこそこ幸福なのは一般の中間層なのではないかという気がします。しかしその中間層がだんだんと落ちこぼれの方に傾いていっていて、そちらの層が増えていきそう…というのが今なのかなと思います。

もし、この本の著者が問題にしている「国語力」を改善しようと改革して、いくら学校で「建前」としての道徳や倫理、人間性を育むことができたとしても、社会に出れば悪魔の論理に染まらなければいけないのは同じです。そう考えると学校教育は大事なのですが、社会の支配構造が変わらない限りは結局同じことの繰り返しなのかな、と思ったりもしています。子どもに起きている問題というのは、大きな社会の縮図であったり、しわ寄せであったりするということを考えると、やはり一番の問題は社会そのもののあり方であり、根底にある悪魔の論理が破壊されない限り、ある部分だけを見て解決するのは難しい問題だと感じました。

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