ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(2)

第一章 キコックの助言(その2)

 こうして、ツェンツェンガを探し出し、さらに無実の罪で投獄されている者たちがいないか調べ上げるための捜索隊が編成され、あちこちの牢獄や兵営に散っていく。そんな中、ハカンダル・バーズモン・ケスラーの三人も、マクドゥマルの宮廷から少し離れた虎賁(こほん)――子爵家当主の親衛隊の詰め所を探索するよう命じられた。
 「兵営の家捜しかよ。色気のねえお役目だな。」石造りのいかめしい建物の前で、ハカンダルがぶつくさつぶやく。「もっとこう女がたくさんいる、例えばどこかの女湯の家捜しとか、そんなお役目が回ってこねえもんかな。」
 「寝言みたいなこと言ってねえで、さっさと済ませて戻ろうぜ、兄貴。ティルドラスさまの晩飯の仕込みがまだなんだ。」バーズモンが言う。マクドゥマル占領後も、彼は相変わらずティルドラスの食事を作る役目を与えられていたのである。
 建物の中はがらんとしていた。もともとここに詰めていた兵士の大半は、虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)――虎賁の指揮官であるナスコート=ジニュエに率いられてメイルと共にユックルの城に立て籠もり、蜂起した民衆にメイルが殺された後はジニュエと共に城を落ち延びて行方をくらましていた。残っているのは書記や雑用係などの非戦闘員と、建物の守備のため残されたわずかな兵だけだった。
 「ここに、もとバグハート軍のザネー=ツェンツェンガどのはおられぬか。」兵士たちに帯同していたバグハート家出身の官吏が、兵営の管理責任者に尋ねる。
 「いえ……。方術将軍は虎賁の方ではございませんでしたし、どこの牢獄におられるのかも存じませぬ。」
 「あの扉は何だ?」入り口脇の部屋の片隅にある分厚い鉄の扉を指しながら官吏は尋ねる。
 「地下の武器庫の入り口でございます。」
 「兵営の牢はどこにある。案内せよ。」
 「はい。こちらに。」兵士たちの先頭に立って歩き出す牢獄の責任者。
 兵営の牢はもぬけの殻だった。冷え切った石造りの床にかび臭い寝藁が散らばるだけで、ここしばらく人が入っていた気配さえない。「どうやら、ここにはいないようだ。」兵士たちを率いていた曹(そう。小隊長級の指揮官)が言う。「よし、引き上げて、次の兵営の探索を――」
 「ちょっと待ってくだせえ。何か臭いませんかい?」その時ケスラーが声をあげる。
 冬の冷たい空気の中、それでも感じられる、周囲に漂う重く不快な何かの臭気。「屍臭じゃねえか?」「この建物は戦いに巻き込まれてねえはずだぞ。いったい何で、屍臭なんかがするんだ?」ケスラーの言葉で臭いに気付いた兵士たちが、口々に声をあげる。
 「臭いがどこから来ているのか探せ!」曹の号令で、兵士たちは犬のように周囲をかぎ回り始める。ややあって、武器庫の入り口だと説明された例の扉の前でケスラーが叫んだ。「ここだ! この扉の向こうだ!」
 「この扉の鍵を開けよ。」顔面蒼白となって立ちつくす兵営の責任者に、曹が厳しい口調で言う。
 「そ、その……、鍵はございません。」
 「とぼけるな! お前、何か隠してるな?」口ごもる相手に、横からケスラーが凄んでみせる。
 「いえ、本当に、方術将軍がどちらの牢獄におられるかなど、全く存じませんで――」
 「何でそれを知ってるんだ? おい!」
 「は?」
 「俺たちは、ただツェンツェンガさまを探しに来たとしか言ってねえぜ。『方術将軍』なんて将軍名は一度も出してねえや。お前は雑号将軍の方々の将軍名を全部言えるのか? おまけにツェンツェンガさまが牢獄にいることまで、どこで知ったんだ?」
 「そ、それは……」
 「まだ白を切る気か。なら、これからお前の家を家捜しするぜ。この兄貴を連れてな。」そう言ってケスラーはハカンダルの方に顎をしゃくる。「言っとくが、この兄貴は女と見れば後先考えずに襲いかかるケダモノだからな。お前の女房や娘がどうなっても知らねえぞ。」
 「お? いいのか? なら喜んでやるぜ!」目を輝かせて身を乗り出してくるハカンダル。彼の様子に牢獄の責任者は顔を引きつらせ、震える手で懐から一本の鍵を取り出す。
 鍵が開けられ、鉄の扉が開かれる。同時に、石段の下に続く暗闇の奥から、むっとするほどの悪臭が立ち昇ってきた。
 「うっ。臭え……。」
 「おい、こりゃただ事じゃねえぞ。」
 「提灯(ちょうちん)を灯せ。あと、ンデワとケルヒャーは、ただちに本営に走って報告と応援の要請を行え。とんでもないものを見つけてしまったかもしれん。」
 提灯の灯りを頼りに暗い石段を下りたその先は、広い石造りの部屋になっていた。周囲を見回しながら部屋の中へと入っていく兵士たちだったが、突然、バーズモンが鋭い悲鳴を上げる。
 「どうした!」
 「ゆ、床の上にあんなものが……。蹴飛ばしちまった……。」
 「!」彼の指す方をのぞき込み、息を呑む兵士たち。そこには、腐乱した人の片腕が転がっていた。
 同時に部屋の反対側から別の兵士の絶叫が響く。提灯の明かりに照らし出されたのは、壁からぶら下がる、半ば白骨化した人の死体だった。
 暗闇に目が慣れると、周囲の異様な光景が目に入ってくる。床に残る血痕。その間に転がる人の手足や目玉。その間を走り回る、人間の肉を喰って丸々と太った鼠の群れ。大きな木の台と、その上に置かれた血まみれの斧。壁に掛けられた、見るもおぞましい責め道具の数々……。「な、何だ?」「いったいこれは……。」
 「ひでえ……。」いつもの威勢の良さもなく、青ざめた顔で立ちつくすハカンダル。その傍らではバーズモンが部屋の隅に膝をついて嘔吐していた。
 その時ケスラーが大声を上げる。「おい、こっちに牢獄がある。人がいるぞ!」
 部屋の片隅に鉄格子で仕切られた三、四房の牢獄があり、その一つの床の上に、血と膿と糞尿にまみれて転がる人影があった。一斉にそちらに駆け寄る兵士たち。彼らの足音を聞きつけたのか、人影はわずかに首を動かした。「おい、生きているぞ。」「名前は?」
 「ザネー=ツェンツェンガ。バグハート家方術将軍……。」かすれた声で問いかけに答える床の上の人影。
 「ツェンツェンガ将軍!?」
 「すぐに牢からお出ししろ!」
 「誰か医者を呼べ!」
 「いや、それよりまず、ここから運び出せ! 担架だ、担架を持ってこい!」
 大騒ぎの中、ツェンツェンガは牢から運び出され、手近な場所で手当てを受ける。ひどい拷問を受けたらしく全身傷だらけの上、衰弱が激しく、一時は命も危ぶまれたものの、なんとか一命は取り止めた。ティルドラスは自身で彼を見舞い、一説には拙(つたな)いながら治癒の方術を使って治療の手助けまでしたという。
 「どうだい、手柄だぜ。ツェンツェンガさまを見つけた褒美で俺たち全員に銀一両。俺は一番手柄ってことで銀二両の上乗せだ。」事が一段落したあと、兵営の大部屋で周囲に向かって得意げに言うケスラー。
 「俺ぁ褒美なんかもらえなくていいから、あんな物見たくなかった。あれ以来飯が喉を通らねえ。たぶん一生夢に出てくる……。」憔悴しきった表情でバーズモンがつぶやく。

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