ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(11)

第三章 二都の角逐(その2)

 一夜が明けて、早速、対立の一端が表面化する。「ネビルクトンより摂政の書状が届きました。件(くだん)の銅銭の件についてでございます。」部下たちを集めての評定(ひょうじょう)の席で、イックが報告する。
 「何と言ってきた?」とティルドラス。
 「現在ハッシバル家の本領では古い銅銭の使用を禁じて新しい銅銭を使うこととなっており、旧バグハート領もそれに倣うべき――、とのことです。」
 「やはりな。」ティルドラスは眉をひそめる。
 現在ティルドラスを悩ませているのが旧バグハート領の通貨問題である。もともとがハッシバル領だったこともあり、これまでバグハート領内での商取引には、ティルドラスの祖父であるキッツ伯爵の時代からフィドル伯爵時代の初期に発行されたハッシバル家の銅銭、及びそれと同一の規格で作られたバグハート家の銅銭――以下、総称して「良銭」と呼ぶ――が使用されてきた。
 その良銭を、ハッシバル家本国の商人たちが大挙して旧バグハート領内に乗り込み、住民たちから二束三文で巻き上げているという報せを受けたのは、バグハート家の滅亡からいくらも経たない頃だった。
 確かにハッシバル家の本領では、昔の銅銭は表向き使用が禁止されているものの、実際には質を大幅に落として改鋳された新しい銅銭――以下「悪銭」と呼ぶ――の二倍から三倍ほどの価値で、密かに取引に使用され続けている。しかし旧バグハート領の住民たちはそんなことは知らない。それにつけ込んだハッシバル家本国の商人たちは、持ち込んだ悪銭を三倍から四倍、ひどい場合には十倍ほどの枚数の良銭と、禁令を盾に半ば脅すようにして交換していたのである。
 報せを受け、驚いたティルドラスは摘発に乗り出す。あこぎな商売をしていた者たちは拘束されて巻き上げた良銭を没収され、住民たちには安易に交換に応じずこれまでの銅銭を使い続けるよう布告が出された。だが、問題の根本的な解決にはならない。悪銭を発行しているのは他ならぬネビルクトンの宮廷であり、しかもその使用が法により強制されているのである。手に入れた良銭を持って首尾良く逃げおおせた商人も多く、捕まえた者たちも結局罪に問うことはできなかった。
 ティルドラスにしてみれば納得の行かない幕引きであるが、一方の商人たちも、反省するどころかむしろ彼への不満を募らせる。
 ――伯爵さまが余計なお触れを出したせいで、バグハート領の奴らが知恵を付けて、銭を交換しなくなっちまったじゃねえか。どうしてくれるんだ。――
 ――俺も本当ならもっと儲けられたはずなんだ。何で伯爵さまが俺の商売の邪魔をするんだよ。――
 ――だいたい、戦に勝ったのは俺たちじゃねえか。負けた国の奴らから搾り取って何が悪いんだ。――
 ハッシバル家の本領に戻った商人たちはネビルクトンのサフィアに不平を訴える。サフィア自身も自分がやっていることにけちを付けられるようで面白くない。旧バグハート領でも悪銭を通用させるよう圧力をかけるサフィアとそれに抵抗するティルドラス。ネビルクトンとマクドゥマルの間で何往復かの緊迫したやりとりが行われたあと、ついに昨日サフィアから、良銭の流通を停止して悪銭を使わせるようにという最終決定の書状が届いたのである。
 「いかがいたしましょう?」とイック。
 「分からぬ。」かぶりを振るティルドラス。「何とか引き延ばしができぬか考えてほしい。」
 部下たちも困った顔になるものの、この話ばかりを延々続けるわけにも行かない。続いて議題は、旧バグハート領内におけるハッシバル家への不敬・不忠に対する告発の扱いへと移る。
 もともとティルドラスは、寛大で仁慈、むやみに人を罰したり殺したりしない人物として知られていた。だが、バグハート家時代の密告で無実の人間を獄死させた者たちの罪を問い、多数の処刑を断行したことから、役人たちの間にある憶測がはびこり出す。
 ――実はティルドラス伯爵は刑罰を好まれるのではないか?――
 ――案外そうなのかもしれぬ。――
 ――ならば、お心に沿うよう忠勤を励まねば。――
 メイル子爵の治下で蔓延した、役人がひたすら支配者の顔色を窺い、それに迎合する仕事ばかりに熱心に取り組む悪しき風潮は、支配者が替わったくらいで簡単に改まるものではない。こうして、些末な罪での告発を手柄顔で持ち込んではティルドラスの歓心を買おうとする者が現れるようになる。
 いつの時代も、支配者に媚び諂(へつら)う者たちが真っ先に槍玉に挙げ、眼の色を変えて騒ぎ立てるのが、支配者個人に対する誹謗や不敬である。持ち込まれる告発の大半はそうした内容だった。
 ――何某は酔って往来でくだを巻き、説諭を行おうとした警邏(けいら)に「文句があるなら伯爵さまでも誰でも連れてきやがれ」との暴言を吐きました。不敬の罪に問うべきでございます。――
 ――何某は、新年を祝うのに、三つ星に剣のバグハート家の紋章が付いた旗・幟(のぼり)を用いました。ハッシバル家への不忠でございます。――
 こんな愚にも付かない告発がひっきりなしにティルドラスのもとへと持ち込まれ、そちらに手を取られてはるかに重要な案件の処理が滞るような状態だった。さらに、宮廷内のそうした動きを聞きつけた者たちまでが、かつての密告の経路を通じて、ティルドラスへの「不敬」や「誹謗」をご注進してくるようになる。密告者の中には、バグハート家の末期に組織的な誣告や「不忠」とされた者たちへの暴行・脅迫を繰り返していた「子爵家への忠義の士」たちの残党も含まれていた。
 「官吏には、具体的な罪の事実もあげぬまま不敬・不忠のみを理由として告発を行うことは控えるよう、重ねて通達を行うように。また、密告制度は廃止された旨の布告を今一度行い、今後、告発は明らかな事実を記した正規の訴状についてのみ受理することを領内に周知させよ。」ティルドラスは言う。
 そのほかいくつかの議題が取り上げられ、評定は終わりに近づく。「他に何かございませぬか。なければこれにて――」とチノー。
 「小さな事ではございますが、いちおうお耳に入れておいた方が良いかと。」その時、一座の末席からオールディンがおずおずと口を開く。バグハート家では一介の小役人だった彼は、こうした席での発言に慣れていない。「マクドゥマル周辺に妙な流言が広まっております。近在のいくつかの村で、豊作祈願の祭祀に天帝の使者を名乗る神が降臨し、国を安んじ民を救うという人物を告げたとの話でございます。名はペジュン=アンティルとか。」
 「そうか。」ティルドラスは頷いたものの、それほど興味がある様子ではなかった。「当面は静観し、引き続き様子を見るに止めよ。流言が広まり人心の動揺を招くようなら、その時に改めて対策を講ずる。――評定は以上とする。各自持ち場に戻るように。」

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