ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(16)

第三章 冬終わる日に(その2)

 「民を愚昧なままに置くべきではないと言われるが、もともと民とは愚かなものではありませぬか? だからこそ、我ら民の上に立つ者が彼らを統べ、正しい道へと導いてやるべきなのでは?」詰問するような口調でチノーは続ける。
 「そうでしょうか?」アンティルの表情は相変わらず穏やかだったが、その口調には何やら鋭い刃のような響きがあった。「歴史をご覧下さい。民を統べる者が、無学な田夫野人ですら犯さぬような愚かな過ちによって国を衰えさせ、あるいは亡ぼした例(ためし)は数知れませぬ。さらにその愚かしさと危うさを一介の在野の士があらかじめ見抜き、滅びの予兆として嘆いた話も数多く伝わっております。人の賢愚は貴賤や貧富によって軽々しく測れるものではございませぬ。貧賤の者が富貴な者より愚昧で劣っているなどというのは、他人の愚かしさを知って自らの愚かしさを知らぬ、偏狭で傲慢極まりない考えのように私には思えます。」
 「!」
 顔色を変えるチノー。その傍らから、こちらは穏やかな口調でティルドラスが言う。「では、民を愚かにしないために、我らはどのようなことを為すべきなのでしょうか。」
 「まずは、全ての民が最低限の教育を受けられるように務めることでございます。基礎的な読み書きと計算を覚えさせ、さらに自然や人の世の理(ことわり)についての初歩的な知識と筋道立った物の考え方を身につけるようにさせる。それだけでも迷信や流言に惑わされる者は格段に減りましょうし、仮にそういう者がいたとしても、周囲がその惑いを正してくれるようにもなります。それはまた、人々の無知につけ込む良からぬ者たちが世に蔓延(はびこ)るのを防ぎ、国を平穏ならしめることにもつながりましょう。」
 「ううむ。」ティルドラスは大いに感じ入るところがある様子だった。
 「確かに、あなたが国のあり方について遠大な理想をお持ちなことは分かった。だが、あなたが言われたことは迂遠(うえん)で、今、我らが直面している問題の役には立たぬ。目下の国政についてご意見をお聞きしたい。」少々旗色が悪いと感じたのか、チノーは話題を変える。
 「チノーさまは伯爵腹心の方と聞いております。腹蔵ない意見を申し上げても良いでしょう。」アンティルは言う。「旧バグハート領を併せたとはいえ、今、伯爵ご自身が置かれている状況は、私が以前お目にかかった時とさほど変わってはおりませぬ。国権は摂政に握られ、伯爵ご自身は実権から遠ざけられております。しかも摂政一派の力は国のあらゆる場所に及んでおり、一朝一夕にそれを変えることは困難でございましょう。」
 キコックと同じことを言っている――、ティルドラスは内心思う。だが、アンティルの語る内容は、キコックよりさらに具体的だった。
 「しかし対処の方法はございます。そもそも摂政が今の力を得たのは、策を弄して伯爵家の要職にある者を味方に引き込み、宮廷を自身の支配下に置いたことにあります。ならば摂政には宮廷の内で小事に奔走させ、伯爵ご自身は宮廷の外に大事を図る事を心がけられますよう。摂政一派の力の及ばぬ場所で自らの力を蓄え、有能の士を招き、他国と誼(よしみ)を結び、広く恩愛を施して民心を得るならば、必ずや挽回の機会は参りましょう。」
 「誼を結ぶとすればどの国でしょう。」
 「地図を見ながらお話しします。」アンティルは棚から一枚の大きな地図を取り出し、手近な作業台の上に広げる。そこには全ミスカムシルの地理が、地形、都市の位置、それを結ぶ街道、各地の産物に至るまで詳しく記されていた。
 「立派な地図ですな。」ティルドラスは少し驚く。地図は決して簡単に手に入るようなものではない。地図を作るための測量技術がそれほど発達していないことに加え、戦乱の時代ということもあって、どこの国も自国の地理や都市の位置を隠したがり、隣国や友好国の地理ですら他国にはよく分からないものだった。ましてや全ミスカムシルの地理を網羅した地図など各国の宮廷でさえまず持っておらず、持っていたとしても国家の最高機密として厳重に秘匿されているのが普通である。
 「恐れ入ります。旅人から話を聞いたり、使者として各地に赴いたりして得た情報をもとに自作したものです。」とアンティル。
 彼自身気付いていなかったものの、おそらく、この時代のミスカムシルで最も正確な地図だったろう。若い頃に天下を旅し、仕官した後も使者として他国を訪れる機会の多かったアンティルは、各地で天体観測を行ってその場所の正確な位置を求め、直接訪れられなかった場所についても、旅人などから得た情報に基づいて、正確な位置の分かっている地点からの方角と距離をもとに位置を割り出して地図上に書き加えていた。純粋に個人的な知的好奇心から作られたものではあったが、後にこれを発展させた地図はハッシバル家の外交や戦略にとって大きな力となる。
 「今、誼を結ぶべきは、このカイガー家でございます。」その地図上でアンティルが指し示したのはカイガー子国、アシルウォクトーの湖の北岸に位置し、ハッシバル家とケーソン家に挟まれた小国である。国都・トーラウはハッシバル領のキクラスザールから四日行程の距離にあり、行き来も比較的容易と言って良い。「かつてのバグハート家と似た立場と言って良いでしょう。二つの大きな国の間にあって、常に両国の動きに神経を尖らせ、自国の存続に汲々とせざるを得ない。今、伯爵が礼を尽くして誼を求めるなら、カイガー家も喜んで応じましょう。」
 「誼を結ぶに当たって心がけるべきことは?」
 「相手が小国であるからといって、決して侮ったり、弱みにつけ込んだりするべきではありませぬ。そもそも、カイガー家がハッシバル家の庇護を必要とするのと同様、伯爵もまた、国権を取り戻すためにはカイガー家の力を借りねばならぬお立場です。あくまで謙虚に、対等の立場で接し、受けた恩義には誠実に報いることを心がけられますよう。」
 「ふむう。」考え込むティルドラス。
 「気がかりなのは、摂政が旧バグハート領を得たことに慢心してカイガー家に高圧的な態度を取り、無理難題を押しつけるようなことをせぬかです。そうなればカイガー家の心はハッシバル家から離れ、場合によってはケーソン家と結んでハッシバル家に敵対する道を選ぶ危険もございます。そのような事態を避けるためにも、伯爵ご自身が私的にでもカイガー家との間に誼(よしみ)を結ぶよう務められるべきでしょう。」
 「そのケーソン家への対処は?」エル=ムルグ山地の一番奥に位置しハークトンを国都とするケーソン伯国は剽悍(ひょうかん)で好戦的な国であり、旧バグハート領を併せたことで国境を接するようになった今、どう対応するかはハッシバル家にとって難しい問題だった。
 「当面は事を構えるべきではありませぬ。こちらから敵対的な行動を取ることは厳に控え、国境周辺の守りを固めて付け入る隙を与えぬことに専念すべきです。ただ、好むと好まざるとに拘わらず、いずれケーソン家とはエル=ムルグ山地内の覇権を巡って争うこととなるはず。いずれその日が来ることを念頭に、万全の備えを固めておくべきでございます。」
 「無用な流血は極力避けたいのですが。」
 「伯爵は仁慈の君でございますな。その策もございます。」ティルドラスの言葉にアンティルは満足げに頷く。「ケーソン家は他国に比べ、各地に小領主が割拠する色が強い国でございます。そうした小領主を各個に調略して離反させ、力を削いだのち、利と礼をもって説くならば、最小限の犠牲でケーソン家を服従させることは可能でございましょう。そのためにも、まずカイガー家と結び、さらにハッシバル家自身も大いに国力を蓄えて、ケーソン家に対して絶対的な優位を占める必要がございます。容易な道ではありませぬが、決して不可能なことでもございませぬ。」
 「なるほど。」頷くティルドラス。
 「法のあり方についてお聞きしたい。法の運用は厳しくあるべきか、それとも寛大を旨とすべきか、あなたのお考えはいかがか。」チノーが言う。実は彼は、ティルドラスがバグハート家時代の密告者たちを厳しく罰したことを、未だに解しかねていたのである。
 「法の運用は厳しければ良いというものでも、寛大であれば良いというものでもありません。ただ、必ず守らねばならぬのは、執行に当たって公正であることです。強い者、権勢のある者、権力者の覚えめでたい者の罪が見逃される一方で、弱い者、身分卑しい者、権力者から快く思われていない者が些細な罪で罰せられるのであれば、法は存在せぬも同然です。」そしてアンティルはチノーの方を見やりながら言う。「おそらくチノーさまは、寛仁大度で知られる伯爵が、バグハート家時代の密告者たちに厳しい刑を科したことに戸惑っておられるのではございませぬか?」
 「!」図星を突かれてチノーは言葉に詰まる。
 「そもそも、法とは本来、強者が力で他を圧迫することを律し、弱者が弱さ故に不当な扱いを受けることを防ぐために存在するのです。伯爵が密告者たちに重い刑を科したのは、法の公正を蔑(なみ)して強きに阿(おもね)り弱きを虐げる彼らの行いが許せなかったからではないか。私はそう拝察しております。」
 「そう――だったのでしょう。」少し驚いた表情を見せながらティルドラスは頷いた。自分でも意識していなかったが、言われてみれば、あの時自分に密告者たちへの厳しい処分を決断させたのは、まさにそのことだったのだろうと思う。
 「では……お聞きしたいが……、」たじたじとなりながら、なおも食い下がろうとするチノー。
 だが、傍らからティルドラスが、静かにそれを制止する。「チノー、もう良い。」そして彼はアンティルに向かって居住まいを正し、おもむろに口を開いた。「先生、あなたの才は聞き及んだ通りの、いや、それ以上のものでした。どうかその才を世に顕(あらわ)し、私を輔(たす)けてはくれますまいか。」
 「勿体(もったい)をつける気はございませぬ。その言葉をお待ちしておりました。」ティルドラスの言葉に、アンティルは静かに頷く。

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