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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(25)

第五章 宮廷人事(その5)

 「博打でこしらえた借金の穴埋めにキーユ子爵のお手元金を使い込んだ上、先代・バルソー子爵のお手つき侍女と密通し、その後始末と引き換えに我らに子爵の動静を教えると泣きついてきた、そうであったな。」ネイカーは言う。「キーユ子爵は寛大な方だ。お手つき侍女との密通は許されるかも知れぬが、お手元金の使い込みまで許しては他の使用人どもへの示しがつくまい。良くて放逐、悪くすればお手討ちだ。ましてや、その後始末のために主君の動静を我らに売ったことが知れ渡れば、悪名はお前の家族から一族のものにまで降りかかるだろう。そうなれば、少なくともハッシバル領で暮らし続けることはできぬ。それが嫌なら、決して我らを裏切ろうなどと思わぬ事だ。」
 「ふん、大した使用人だな。我が家の者たちには見習ってほしくないものだ。」軽蔑したように鼻を鳴らすガルキン。
 「まあ良い。我らのために働く限りは、決して不満は持たせぬだけの報酬は約束するし、何かあれば守ってもやる。――取っておけ。」そう言いながら、目の前の床に銀貨の詰まった革袋を投げ出すネイカー。シルケントスは震える手でそれを押し頂き、二人に向かって一礼すると、あたふたと部屋を出ていった。
 「愚かな男だ。博打や女にのめり込んだ挙げ句、主人を売るまでになるとはな。」彼の後ろ姿を見送りながらガルキンはつぶやき、続いて傍らのネイカーに目をやる。「それにしても、こうも都合良く行くものかな。貴公が何か手を回したのではないか?」
 「ご想像にお任せします。」彼の言葉に笑みを浮かべるネイカー。一片の朗らかさもない、背筋が寒くなるような冷たい笑いだった。「ただ、狙いさえ過(あやま)たねば、主人を我らに売る者などいくらでも作り出せます。誘いに簡単に乗る愚か者を見つけ出すのも、言葉巧みに博打に引き込んで借金を作らせるのも、金で動く女に誘惑させたのちに揉め事を起こさせるのも、困りごとを解決するために我らを頼らせるのも、全てその道に長けた者どもがおるもの。そうした者たちを使いこなせさえすれば、こちらの思うがままに動く者を作り出すのは難しいことではございませぬ。」
 「実に恐ろしいお人だ、貴公は。決して敵に回すべきではないな。」とガルキン。
 「ともあれ、シーエック子爵を我らの側に引き込むのは難しそうでございますな。」ネイカーは言う。「あと、気になるのは、アンティルという男でございます。どのような者か調べずばなりますまい。」
 翌日の昼、宮廷内にある尚書令の執務室で、ネイカー、そしてガルキンと向かい合っていたのはユニだった。
 「今日は将軍にお尋ねしたいことがあり、かようにお呼びした次第。最近伯爵の信任を得ておるアンティルとはどのような者か、ご存じないか。」ネイカーは言う。
 「アンティルでございますか。そのことでございます。」少々むきになったような口調でユニは言う。「かつてバグハート家で諫大夫(かんたいふ)の地位にありましたが、メイル子爵の怒りを買って免職となり、宮廷を追われた男でございます。確かに博学多才ではあるのでしょうが、伯爵の恩寵を良いことに、身分をわきまえず万事に口を差し挟んでは上下の秩序を乱しております。なぜ、あのような者を伯爵があれほどまでに信任されるのか、理解に苦しみます。」
 「ふうむ。なぜであろうな。」
 「まこと、解せませぬ。人の噂では、何やら得体の知れぬ妖術を使って伯爵に取り入ったのかも知れぬと。チノーどのも憂慮されておられるようです。」
 「ほう、チノーがな。」彼女の言葉を聞いたネイカーの目の奥に、妖しい光がちらりと浮かぶ。
 「妖術か。」ユニが退出したあと、ネイカーに向かって言うガルキン。「実は、私も部下の者から聞かされたのだが、そのアンティルの師はパスケルといって、悪名高い妖術師だったという。」
 「妖術師の弟子でございますか。左様な者に惑わされておられるとなれば、いよいよ、そのような方に国の命運を預けるのは危ういことでございますな。」あの不気味に冷たい薄ら笑いを浮かべながら、ネイカーは言った。
 さらにその翌日、ティルドラスは摂政のサフィアに呼ばれる。最近では、彼女がティルドラスのもとにやって来るのではなく、ティルドラスの方が摂政のもとに呼びつけられるようになっていた。「一周忌の祭祀が無事に終わり何よりでございますが、次に考えねばならぬのはティンガル王家への参朝でございます。」式典を大過なくやり遂げたティルドラスの労をねぎらうこともなく、尊大な口調でサフィアは言う。「伯爵の位に就かれて一年、そろそろ都・ケーシを訪れて、王へのご挨拶を済ましておくべきかと存じます。旧バグハート領をこのまま我が国が領有することへのお許しを得る必要もございますし、ナガン公子も王へのお目通りをまだ行っておりませぬ。お二人そろってケーシを訪れられるべきでございましょう。年頭の占いでも旅するに吉となっております。」
 「考えておきましょう。」気のない表情で頷くティルドラス。魂胆は分かっている。ティンガル王家の参朝を名目に、遠く離れたケーシに自分を旅立たせ、その間、自分は国内で権力を振るうつもりなのだ。
 「なるべく早く行うべきでございます。ティンガル王家への参朝は諸侯の義務。あまり遅れては王家への非礼をとがめられることにもなりかねませぬ。」サフィアはなおもしつこく繰り返す。
 同じ頃、チノーは彼とは別に、尚書令であるネイカーの執務室に呼び出されていた。ティルドラス派とサフィア派に別れて対立する立場とはいえ、職制上は上司に当たり、部署の最高責任者でもあるネイカーである。呼び出されれば応じないわけには行かない。
 ネイカーがティルドラスの近況を尋ね、チノーが当たり障りのない答えを繰り返すやりとりがしばらく続いたあと、ネイカーが改まった口調で切り出す。「時にチノーよ、大事な話がある。実はお主を尚書丞(しょうしょじょう)に任ずることを考えているのだ。」
 「何と……!」目を見張るチノー。
 尚書丞は伯爵家当主の秘書官である尚書の中で尚書令に次ぐ地位である。格式としては、令尹の管轄下にある閣僚級の上級官僚や、軍であれば上将軍にも匹敵する地位で、むろんティルドラスの側近たちの中では最高の官位となる。実は、彼の尚書丞への任命は以前からティルドラスがサフィアに求めていたことだったが、サフィアはチノーの若年(じゃくねん)を理由にこれまで色よい返事をせずにいた。
 「聞くところでは、近頃、伯爵の周囲には素性も心根も知れぬ者たちが集まっており、中には妖しの術を使う者さえ混じっておるようなことさえ聞く。誰か信頼の置ける者がお側におる必要があろう。」ネイカーは続ける。「お主の若年を危惧する者もおるが、お主は才能も優れ、尚書の中では伯爵の信任が最も厚い。身近にあって伯爵を輔(たす)けるべき人材といえば、やはりお主をおいて他にないと思うのだ。その旨、摂政にお話しし、摂政もお主の才を高く評価しておられるとのことであった。」
 疑ってかからねばならぬはずだった。しかも相手は「口に蜜あり、腹に剣あり」と称されるネイカーである。だが、この時のチノーの考えはそこにまで及ばない。自分が尚書丞になれば宮廷内での発言権も増し、ティルドラスのためにもになるはず。そして何より、アンティルにも自分の力を見せつけることができるではないか――。
 「差し当たっての問題として、ティンガル王家への参朝を早期に行うべきという話が出ておる。お主からも伯爵に進言してほしい。当然、参朝の際の伯爵の付き添いはお主に任せることになる。伯爵の付き添いが一介の尚書では王家への体面上も問題があろう。それを機にお主を尚書丞に任じるのであれば、異を唱えるものもあるまい。」ネイカーの口調はあくまでも穏やかに柔らかく、何も知らぬ人間が聞けば、心からチノーのためを思ってのことと信じるようなものだった。「お主の昇進を喜ばぬ者もおる。ここでの話は他言無用だ。これからも、伯爵、そして摂政のために大いに働いてほしい。期待しておるぞ。」
 摂政のため、を強調するような言い方だったが、チノーは黙って頷く。そのまま地に足が着かぬような様子で退出していく彼を見送るネイカーの顔には、何やら嘲笑うような表情が浮かんでいた。
 さまざまな思惑が渦巻く中、一周忌の祭祀を終えた数日後、ティルドラスはアーネイラを訪問するためキクラスザールへと出立した。そしてそれは、他国までを巻き込んださらなる情勢の複雑化の始まりとなる――。

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