ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(21)

第五章 宮廷人事(その1)

 途中大きな事件もないまま、三月の下旬にティルドラスは国都・ネビルクトンへと戻る。シュマイナスタイのアーネイラを訪ねるという口実で国都を離れたのが前年の十月であるから、ほとんど半年ぶりの帰還となる。
 宮廷に戻った後、まずは帰還の報告のため、彼はチノーとともに摂政のサフィアのもとに赴く。降伏した者たちの代表としてナックガウルとメルクオ、ツェンツェンガの三人も従った。バグハート家での官位は諫大夫(かんたいふ)、現在の官位も郎に過ぎないアンティルはサフィアへの目通りは許されず、後から名前だけが、戦利品の目録のような降伏官吏の名簿に載せられて彼女のもとに届くはずである。
 サフィアから、彼女の許しを得ずにバグハート家との戦いに向かったことについてひとしきり説教されたあと、彼の留守中に行われた人事について説明を受けるティルドラス。
 「まず、年明けに尚書令のゼミン=アルハズルが物故いたしました。ヒッツ=ネイカーを後任の尚書令に任命しましたので、その旨お知らせします。」
 お知らせします、なのである。もはやティルドラスには、宮廷の人事について形式的な同意を与える権限すら持たされてはいないらしい。
 さらにサフィアの説明は続く。彼女に媚びへつらう人間が宮廷の要職に据えられ、逆に彼女に批判的な、あるいはティルドラスに同情的な官吏は片端から辺地や閑職に追いやられていた。ティルドラスも黙って聞いていたわけではなく、要所では彼女の人事に異も唱える。「他に適任者がいるのでは?」「彼がその任に堪えられるとは思えませぬが。」「彼の能力と功績からして、もっと重い役に就けてしかるべきではありませぬか?」
 しかし、彼の意見に対するサフィアの答えは木で鼻をくくったようなものだった。「いえ、これでよろしいのです。」「失礼ながら、そのご意見は当たらぬかと存じます。」「すでに決定したことでございますから。」「伯爵がお心を悩ませるほどのことではございませぬ。」
 結局サフィアが一方的に決定を押しつけてくるだけの報告が続いたあと、最後に彼女は少し改まった口調になって言う。「長らく空席になっておりました虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)でございますが、このたび、ふさわしい人物がようやく見つかり、任命の手はずとなりました。」伯爵家当主の直衛部隊である虎賁の指揮官である。先代・フィドル伯爵の時代にその地位にあった猛将リガ=アクラユが、フィドル伯爵の死後、ダンに与(くみ)して彼とともに国外に亡命して以来、空席のままとなっていた。
 「どのような人物でしょう。」あまり気乗りのしない様子で尋ねるティルドラス。
 「奇(く)しくも、お三方(さんかた)と同様にバグハート家から帰順した人物でございます。名はナスコート=ジニュエ。バグハート家でも虎賁中郎将を務めていたということで、まずは適任でございましょう。」
 「!」思わず顔色を変え、椅子から腰を浮かせかけるティルドラス。だが、その上着の背中を背後に立っていたメルクオが思い切り引っ張り、半ば無理矢理に彼を椅子の上へと引き戻す。
 「次の間に控えております。お目通りを。――ジニュエをこれへ。」サフィアの言葉に応じて控えの間に通じる扉が開かれ、そこから現れた一人の男がティルドラスの前に膝を突いた。
 あれほどの残虐な行為を行った人間とは思えない、特徴のない平板な顔立ちの男だった。後に彼の曾孫が祖父から聞いた話としてソン=シルバスに語ったところでは、家庭では良き夫・良き父親でもあったらしい。
 「パドローガルの銀器を取り戻してくれたのでございます。これはもう、城一つを落としたに匹敵する手柄と申せましょう。重く賞してその効を称えるべきかと。」満面の笑みでサフィアは言う。
 ユックルの城で叛乱を起こした民衆にメイル子爵が殺害された際、混乱に紛れてパドローガルの銀器を手に入れたジニュエは、そのまま配下の兵とともに城を抜け出し、近くの山に潜んで身の振り方を考える。ハッシバル家に降るか、他国に亡命するか、いずれにせよパドローガルの銀器は大きな手土産となるはず。あるいはこのまま山に籠もって山賊となる道もある。
 だが、山賊稼業は危険が大きい。占領したマクドゥマルの情勢が安定すれば、ティルドラスの軍勢が、バグハート家の敗残兵であり山賊でもある自分たちの討伐に動き出すのは目に見えている。メイル子爵の殺害を主導した侠客・マストバーグ一家も進んでそれに手を貸すだろう。周囲一帯のならず者たちを配下に収め、地の利にも明るい彼らが討伐軍の側に付けば、にわか山賊の自分たちに勝ち目はない。
 かといって他国に亡命しようにも、ケーソン家にせよカイガー家にせよ、陸路で逃れるためにはハッシバル領なり旧バグハート領なりを横断して反対側に抜けねばならず、とてもたどり着けそうにない。マクドゥマルの港もすでにハッシバル軍に押さえられており、船での逃亡も不可能である。
 やはりハッシバル家に降るか。しかし、ティルドラスは兵士による庶民への略奪を非常に嫌い、厳しく罰してきたという。マクドゥマルやユックルで自国の民に対する略奪を繰り返し、山に籠もってからも周囲の村落を襲って食料を手に入れてきた自分たちを果たしてティルドラスが許すものなのか。さらに、バグハート家の時代に行われた密告やそれにより投獄された者たちへの拷問・虐待に対して、ティルドラスが厳罰をもって臨んでいるという情報も入ってくる。当然、それを主導したジニュエや虎賁の兵たちが見逃されることはないだろう。
 「慌てるな。まだ手はある。このままネビルクトンへと向かって摂政のサフィアに降るのだ。」八方塞がりの状況に動揺する配下の兵たちに、ジニュエは言う。「聞くところでは、ティルドラス伯爵と摂政の間は決してうまく行ってはおらぬらしい。伯爵ではなく摂政に降るならば、おそらく我らも受け入れられるだろう。ただちに山を下り、間道を通ってネビルクトンへの道をたどる。途中でハッシバル軍に見咎められるだろうが、その時は抵抗せずにおとなしく投降するようにせよ。」
 こうして山を下りたジニュエと配下の兵たちは、行きがけの駄賃とばかりに手近の村を襲い、手に入れた食料を持ってネビルクトンへと向かった。下アシルウォック川を渡って旧ハッシバル領内に入ったところで予想通りハッシバル軍の一隊に発見されたが、ジニュエは抵抗することもなく降伏を申し出、さらにネビルクトンのサフィアへの取り次ぎを依頼する。
 最初は戸惑ったサフィアだが、ジニュエが降伏の証(あかし)にパドローガルの銀器を差し出すと聞いて大喜びし、ただちに彼を呼び寄せて引見する。サフィアの前に呼び出されたジニュエは、ティルドラスに追われる窮状を訴える傍ら、歯の浮くような言葉を並べてサフィアの徳を褒め称え、ハッシバル家への降伏を懇願する。サフィアや彼女の取り巻きたちにしても、ティルドラスに追われる彼が自分たちの陣営に加わるのは悪い話ではない。こうしてジニュエの降伏は配下の兵ともども受け入れられ、さらに虎賁中郎将の地位までが与えられることになった。
 ティルドラスも馬鹿ではない。メルクオに椅子の上に引き戻されて我に返り、ジニュエが次の間から現れて彼の前に膝を付くまでの間に、そうした経緯はおおよそ推察できた。ここでサフィアの人事に異を唱えたりジニュエを詰問したりすることは得策ではないことも理解する。「お前がジニュエか。勇名はかねがね耳にしていた。我が軍に加わってくれたことは大変に嬉しく思う。今後は我が国の武将として大いに勤め励んでほしい。」気を落ち着け、努めて事務的な口調で、目の前のジニュエにティルドラスは声をかける。
 「勿体なきお言葉。非才ながら、粉骨砕身、犬馬の労を尽くさせていただきます。」こちらも棒読みのような口調で答えるジニュエ。むろん彼にしたところで、ティルドラスの言葉を額面通りに受け取れないことは百も承知だろう。
 『虎賁は敵か。』目通りを終えて退出していく彼を見送りながらティルドラスは内心思う。伯爵家の当主である彼を護衛すべき虎賁が彼と対立するというのもおかしな話だが、少なくとも今後、虎賁の兵は完全にサフィアの支配下にあると考えねばならないだろう。
 そのあと幾つかの用事を済ませ、久しぶりに自室に戻ったのは夕方もかなり遅くなってからだった。
 「?」部屋に入った途端、怪訝な顔で周囲を見回すティルドラス。寝台を初め、部屋にあった家具や調度品がいくつも、櫛の歯が欠けたように消えているのである。「部屋に寝台がないようだが、どうしたのだろう。」
 「伯爵が、借金の返済に充てるはずだったご内帑金(ないどきん)を全てお持ちになってバグハート領に向かわれたためでございます。」彼の身の回りの世話をする小役人が不平がましい口調で言う。「お発ちになってすぐ、担保になっていた寝台が差し押さえられ、その後も楽器、将棋盤、屏風と片端から債権者どもに持ち去られております。」
 「そうか、そうだったな。思い出した。」頷くティルドラス。彼の身の回り品の多くが、父である先代・フィドル伯爵の残した借金の担保にされており、返済が滞れば差し押さえられてしまう状態となっているのである。
 「お持ちになったご内帑金は……?」
 「うむ、全て使ってしまって全く残っていない。」戦場ほかでの兵士や官吏への褒美、緑林兵や白甲兵への給与――、大した額でもなかった内帑金は、戦いが始まっていくらも経たぬうちに使い果たした。一方でバグハート家の国庫から接収した金銀の大半はサフィアの命令で伯爵家の国事に充(あ)てるものとされ、彼の裁量に任されたわずかな部分も結局はあれこれの入り用に回されて手元には残っていない。
 「あの……、次の返済期限が明後日でございまして、利子を含めて銀三百両あまりを払えませぬと、そちらにございますカトプキンの壺が差し押さえとなりますが……。」部屋の片隅に飾られた、彩色された大きな磁器の壺を見やりながら、困ったように役人は言う。
 「そうか。払えぬのであれば仕方がないな。持って行ってもらうが良い。」ティルドラスは鷹揚に頷いた。「今日は早く寝たい。軍用の寝台を運び込んで欲しい。」

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