ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(13)

第三章 二都の角逐(その4)

 ハッシバル家とバグハート家の戦いの後、メルクオ=リーの取った行動は奇妙なものだった。
 戦いの終盤、マクドゥマルからメイル子爵が落ち延びるための時間稼ぎとして殿軍(しんがり)を命じられたメルクオは、役目を果たした後、メイルの跡は追わず、マクドゥマル近くの山の上にある小さな砦に手兵を率いて立て籠もる。
 立て籠もったと言えるのかどうかすら怪しい。砦には拠(よ)ったものの、特に抵抗の構えを見せるわけでもなく、部下の兵士たちは時々砦から出て市で買い物をしたり、近在の農家の農作業を手伝って小銭や作物を報酬に受け取ったりし、そこにハッシバル兵が現れると急いで砦に逃げ込んで門を閉じる。ティルドラスから降伏勧告の使者として送られたイックに対しても、丁重な態度を取りながらも、のらりくらりとはぐらかして態度を明らかにしないまま投降を先延ばしにしてきた。ティルドラスの方でも無理押しはせず、定期的に帰順を促す使者を送る程度で、後は放置する姿勢を取る。
 一方でメルクオは、ネビルクトンのサフィアに密使を派遣して書状を送り、帰順の可否を打診する。その文面は、読む者が赤面するほどのお追従と諂(へつら)いに満ちたものだったという。メルクオの怯将(きょうしょう)――腰抜け将軍という評判をすでに耳にしており、さらにこの書状を目にしたサフィアたちは、彼を嘲笑い、さんざん侮蔑の言葉を浴びせて使者を追い返す。
 「なるほどな。思った通りだ。」密使からサフィアたちの反応について報告を受けたメルクオは、特に怒る様子もなく頷いた。「やはり、直接ティルドラス伯爵に降るのが上策か。」
 こうして、この日訪れたイックに対し、メルクオは唐突に帰順を申し出、そのまま彼とともに単身マクドゥマルの宮廷にやって来る。突然のことに宮廷は少なからず混乱するが、ともあれ、バグハート家では末席とはいえ上将軍の地位にあった人物である。急遽、謁見の間が掃き清められてハッシバル軍の主立った顔ぶれが集まり、メルクオを引見する手はずが整う。
 謁見の間に通され、ティルドラスの前に進み出たメルクオは、何やらへらへらした愛想笑いを浮かべながら、ティルドラスの徳を大仰に褒め称え、卑屈な調子でハッシバル家への帰順を申し出る。
 「メルクオ、なぜそのような心にもないことを言う!」彼の長口舌を遮って、ナックガウルがうんざりした様子で口を挟んだ。「帰順を許されずに害されることを恐れているのなら心配は無用だ。お前が世間で言われているような臆病者でも役立たずでもないことは伯爵にも十分お話ししてあるし、我が軍に迎えて手厚く遇するよう進言もしている。それを、わざわざ世間の馬鹿どもの評判に合わせて、好んで侮りを受けているようだぞ。」
 「侮られるのも、必ずしも悪いことばかりではございませんで。」相変わらずの調子でメルクオは笑う。「人は、侮っている相手の前では取り繕うことなく本性をさらけ出すものでございます。人の本心・本性を知るには、まずは侮られてみるに如(し)くはございませぬ。」
 「そうだな。」彼の言葉に頷くティルドラス。「確かにその通りだ。」
 何気ない口調だったが、その言葉の中にある何かを感じ取ったのだろうか。メルクオの表情から、それまでのへらへらした笑いが消える。「つまらぬ事を申しました。ご容赦下さい。」それまでとは違う生真面目な口調で、彼は頭を下げる。
 「いや、別に責めているわけではない。ともあれ、帰順してくれたことは何よりだった。これから大いに励んでほしい。」とティルドラス。「ところで一つ聞きたいことがある。ペジュン=アンティルという人物について知っているだろうか。」
 「はい。メイル子爵のもとで諫大夫(かんたいふ)の地位にあった人物でございますな。」頷くメルクオ。
 「その人物について詳しく教えてほしい。」
 「またアンティルでございますか。大層なご執心ですな。」傍らで苦笑いするナックガウル。しかしティルドラスもメルクオも、彼をよそに、先ほどまでとは打って変わった真摯な口調でやりとりを続ける。
 「最初にお訊ねします。伯爵は、多くの者たちが侮る人間を、御自分も一緒になって侮るお方でしょうか?」とメルクオ。
 「違う……、と思う。」少し考え込んだあと、ティルドラスは言った。「そもそも私に人を侮れるほどの才はないし、なるべくそういうことはせぬよう努めてもいるつもりだ。」
 「大いに結構でございます。左様なお心がけならば、アンティルどのを迎え入れる資格があるかも知れませぬ。」
 「無礼な――!」ユニが声を上げかけるが、ティルドラスは片手を挙げて彼女を制し、メルクオの言葉に聞き入る。
 「あの人物は一国の柱石となるに足る逸材でございます。しかしその才を生かそうと思うならば、決して侮ったり軽んじたりしてはなりませぬ。例えば師に対するごとく謙虚にその言葉を聞くのであれば存分にその才を発揮いたしましょうが、凡百の者を相手とするような等閑(なおざり)な扱いでは、その力の半分も引き出せますまい。さらに、メイル子爵のように上から見下し侮った態度で接するならば、十のうち一の力を得ることすらおぼつかぬかと存じます。」
 「他にも多くの者たちに彼のことを尋ねた。だが、それぞれ言うことが違って判断が付かぬ。」とティルドラス。
 「メイル子爵の時代、アンティルどのを侮る者は数多くおりました。しかし、私(わたくし)の見ますところ、それは全て、彼の言わんとすることを理解できぬまま衆を頼んで揚げ足を取っておったか、メイル子爵が彼を快く思っておらぬことを知ってそれに迎合しておったかのいずれかでございました。竹筒を隔てて巨鯨を眺める、という言葉がございます。凡人が非凡な人物を、自身の狭い見識だけで眺めて評しては、全体が見えぬのは当然のこと。人によって言うことが異なるのはむしろ当然でございます。」
 「それほどの人物だと?」
 「私とてアンティルどのの全てを理解しておるわけではありませぬ。ただ、少なくともメイル子爵の周囲にいた者たちの中に、アンティルどのに及ぶ者は誰一人としていなかったことは、自信を持って申し上げます。」
 「ふむ。」彼の言葉に考え込むティルドラス。
 そのあとメルクオは、家族や部下の兵ともども身の安全を保証しハッシバル軍の中でもしかるべき地位につける旨の言質(げんち)を与えられ、兵士たちへの説明のため一度砦に戻ることになった。「実に恐ろしいお方ですな。お話ししていて、全身が総毛立ちました。」イックとナックガウルに送られて城門をくぐりながらメルクオは言う。「あの方がアンティルどのを得れば、面白いことになるかもしれませぬ。」
 「そうか? 俺には何が何やらさっぱり分からなんだが。」合点が行かない表情のナックガウル。彼の言葉に意味ありげな微笑を見せたあと、メルクオは城門の前に繋いであった乗馬にまたがり、何かの俗謡らしい歌を歌いながら、ゆっくりとした足取りで去っていく。

  愚か者らが寄り集まって
  竹筒通して鯨を見れば
  黒い皮だの大きな眼だの
  櫂(かい)の鰭(ひれ)だの丸い腹だの
  見えたものだけあれこれ言えど
  誰も鯨と気付きゃせぬ

 「噂には聞いておりましたが、何とも捉えどころのない方ですな。」彼を見送りながらイックが言う。
 「それなりに長い付き合いだが、未だに俺も、あいつが何を考えておるのかよく分からん。」かぶりを振りながらナックガウルは答えた。

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