ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(5)

第二章 パスケルの遺言(その1)

 戦の終わった旧バグハート領がそれなりに平穏な新年を迎える一方、年をまたいで戦いが行われている場所もある。今、ここ、ハッシバル領からはるか北方に位置するデクター公国とウェスガー公国の国境では、厳寒の中、両国の軍が対峙していた。
 共にミスカムシルの北方に位置しタンネビッツ川を境に隣接するデクター家とウェスガー家は、古くから対立することが多く、過去にもしばしば戦火を交えてきた。特に、共に時代を違(たが)えて生まれていれば天下に覇を唱えたに違いない英傑と称されるデクター家の先代公爵・ハールーン=デクターとウェスガー家の先代公爵・ヴィルシャーン=ウェスガーが繰り広げた激闘は後世にまで語り継がれるものだった。百年後のソン=シルバスの時代にも、両者の戦いは講談や演劇、叙事詩に吟遊詩人の歌、小説から絵草紙に至るまで題材として人気が高く、比較的史実に忠実な内容から架空の武将の荒唐無稽な活躍を描いた物語まで、主なものだけで二十に余る作品が巷間に流布していたという。
 二人の公爵はほぼ時を同じくして世を去り、デクター家はハールーンの息子のカッツォール、ウェスガー家はヴィルシャーンの甥のカークスギュートが跡を継いでからも両国の戦いは続いている。そして今、タンネビッツ川の西、デクター領内のリュイバンチス――流れの守りの城の目の前に、七千あまりのウェスガー軍が、緑の地に交叉した二剣を白く染め抜いた長旒(ちょうりゅう)を翻しながら陣を布いていた。
 空は晴れているものの、北国の真冬の太陽は午(ひる)近い時刻にもかかわらず空低くに止まっている。その弱々しい光の中、ウェスガー家の陣営から槍を手に進み出た一人の将軍がリュイバンチスの城に向かって大音声に呼ばわる。「我こそはウェスガー家第三軍上将軍・ヴィクトル=アザーヒンである! 我と思わぬ者はかかって参れ!」
 ややあって城門が開かれ、大薙刀を手にした人影が馬を駆って現れた。「デクター家第三軍上将軍、ハーク=カニエ! 参るぞ!」
 「おう! 相手に不足はない! 来い!」槍を構えながら叫ぶアザーヒン。
 凍った地面を蹴り白い息を吐きながら二頭の馬が馳せ違い、同じく白い息を吐く二人の乗り手が手にした槍と大薙刀が打ち合わされる。一騎打ちは四半刻(三十分)以上にわたって続けられたが勝負はつかない。やがてウェスガー軍の陣営から撤退を促す鉦(かね)の音が鳴り響き、それに応じてアザーヒンが槍を引く。「残念ながら、呼び戻しの合図だ。戻らねばならぬ。」
 「ならば勝負は預けておく。いつでも相手になってやるぞ!」同じく大薙刀を引きながら、カニエが叫び返した。
 カニエはそのまま城内へと引き揚げ、アザーヒンも、荒い息を吐く馬を御しながら自陣へと戻っていく。陣営に戻った彼を、六尺(ほぼ180センチ)に少し足りぬ身長にがっちりした体格で年の頃は四十代半ば、革の胴鎧を着け、その上から長いマントを羽織った人物が出迎えた。「軍師、残念ながら勝てませなんだ。」彼に向かって一礼するアザーヒン。
 「良い。」出迎えた人物は鷹揚に頷いた。「相手は名にし負うデクター家のカニエだ。簡単に勝てる相手ではない。むしろカニエを相手に互角に戦った貴公の武勇こそ賞賛に値しよう。」
 彼の名はジワーン=ディディエ。ウェスガー家の筆頭軍師である。デクター家の筆頭軍師である八歳年上のイマム=カンスキーとは、互いの実力に敬意を払いながらも二十年あまりにわたって戦ってきた宿敵の仲であり、『ミスカムシル史大鑑』でも「イマム=カンスキー・ジワーン=ディディエ列伝」として同じ巻に事績が記されている。
 カンスキーが戦の最前線にあまり赴かず、むしろ後方から戦局の全体像を俯瞰して指示を出す帷幄(いあく)の謀臣という色が強かったのとは対照的に、ディディエは常に前線を精力的に馳せ巡っては状況に応じて臨機応変の判断を下し、兵たちを叱咤(しった)するという闘将型の軍師だった。個人的武勇にもすぐれ、時には軍師にもかかわらず自ら部隊を率いて先陣を切り、一騎打ちで敵将を討ち取ったこともある。かといって決して暴勇の徒というわけではなく、その用兵はむしろ慎重で堅実。特に、敗北時に速やかに軍を引いて損害を避ける手際の鮮やかさはカンスキーも及ばぬものであったと『ミスカムシル史大鑑』は述べている。
 「そもそも、貴公に一騎打ちを命じたのは敵将を討ち取るためではない。デクター軍の注意をそちらに引きつけるためだ。」ディディエは続ける。「現在、各地の鉱山から集めた鉱夫たちが密かに城に向けて坑道を掘っている。早ければ一両日中にも、城内へと通じる道が開くはず。直ちに地下から兵が城内に突入し、同時に地上からも城攻めを開始する。事前の情報ではリュイバンチスの兵力は千八百、我が軍の四分の一だ。地上と地下に分かれての守りは難しかろう。その際、貴公には地上からの城攻めの指揮を委ねたい。」
 「おお、望むところ!」彼の言葉にアザーヒンは大きくうなずく。
 同じ頃、デクター家の国都であるカインクトンの城の一室では、公爵・カッツォール=デクターの前に、筆頭軍師であるイマム=カンスキーが控えていた。
 カッツォールはこの年二十七才。豊かな黒髪と整った口ひげ、端整で精悍な顔立ちに上背は六尺を超える偉丈夫である。性格も豪放かつ果断で、知謀は父のハールーンには及ばぬものの武勇では父を上回ると称され、各国の若手君主の中でも随一の傑物という声が高い。
 一方、フォージャー家の丞相・クウォーティン=コダーイ、トッツガー家の尚書令・アルフォンゾ=ゾーファンと並び、当時「天下三傑」と称された中の一人として何度か名前が出ているカンスキー。この年五十五歳だが六十才より若くは見えない。小柄で貧弱な体つきで、デクター家でも名の知られた武門の家柄に生まれながら、生来、武勇の才には全く恵まれなかった。しかし十代の半ばから天下を放浪して兵法を学び、帰国後、先代の公爵であるハールーン=デクターに仕えて見事な策略を次々に成功させ、いつしか、デクター家の柱石として、誰もが一目置く存在となっていた。
 もっとも、ソン=シルバスは彼について「その才は諸侯の謀臣としては有り余るものであったが、乱れた天下を平定し万民の苦しみを救うにはわずかに足りぬものであった」と、やや辛口の評価を下している。
 「軍師、聞くところでは、此度(こたび)の戦、思わしくないとのことだが。」カンスキーに向かって口を開くカッツォール。

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