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ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(23)

第五章、宮廷人事(その3)

 チノーの地位が下がったわけではない。ティルドラスの周りに人が増える中、古くから彼に仕える側近中の重鎮として、むしろ周囲からは以前より重んじられるようになっている。ただ、常にティルドラスの身近にあって万事に献策を行う立場が、彼の手から離れてアンティルに移ってしまった。今やティルドラスの下す命令のほとんどはアンティルの助言をもとにしたもので、結局、チノーはアンティルの命令で動いているようなものである。
 『今回の式典にしてもそうだ。』チノーは考える。
 今、伯爵家の最大の関心事は目前に迫った先代・フィドル伯爵の一周忌の式典である。会場の設営、供物や花の手配、他国から訪れる使者への応対……。重臣から小役人までが連日準備に走り回る中で、主催者となるティルドラスも、国事の合間を縫って、何人もの指南役から複雑極まりない儀式の手順をあれこれ指導される。
 「実に不毛な一日だった。」その日も、疲れきって戻ってきた執務室で、ティルドラスはアンティルにぼやく。入り口から祭壇までは何歩で歩くべきか、最初に踏み出すのは右足か左足か、祭壇に祀られた位牌への拝礼はどのような形で何回行うか、そういった細かなことまでがいちいち定められており、しかも、それが場面によって全く違ったりするのである。「果たしてこんなことを亡き父上が喜ばれるものだろうか。」
 「こうした儀式は、実際には死者のために行うものではございませぬ。生ける者、残された者たちが、内には自身の気持ちの整理をつけ、外には死者への哀悼の意を明らかにするために行うものなのです。」彼を慰めるようにアンティルは言う。「ただ、伯爵が今回の儀式を大過なく行われることには非常に重要な意味がございます。決して疎(おろそ)かにされませぬよう。」
 「というと?」
 「今回の祭祀は、伯爵が久々に衆人の前に姿を現す機会となります。そこでの振る舞いの如何(いかん)によって、世人の伯爵に対する印象が大きく左右されましょう。」父の一周忌で格調高い儀式を滞りなくこなすことができれば、ティルドラスへの周囲の評価は格段に上がる。逆に手順を間違えたり粗相をしたりすれば、それだけで彼の声望は傷つくことになりかねない。「むろん摂政の側もそのことは充分に承知しているはず。通常よりはるかに複雑な儀式が採用されたのも、その思惑からと思われます。」
 今回の一周忌の儀式は、はるか昔の、今ではほとんど行われない複雑で大がかりな様式で行われることとなっている。そのために都・ケーシから古(いにしえ)の儀礼に精通した指南役まで呼び寄せていた。表向きの理由は、亡き父の祭祀を盛大に行うことによりティルドラスの孝心を世に知らしめ、併せてハッシバル家の威光と格式を他国に示す、ということのようだが、実際は複雑な儀礼でティルドラスをしくじらせて彼の評判を落とすのが目的のようである。
 「実際、とても覚えられる気がしない。」ティルドラスはため息をつく。
 「せめて、イック=レックどのを介添え役にできればよろしかったのですが。」こうした祭祀を行う際には、通常、介添え役が一人付き従い、祭壇に捧げる供物や儀礼に使う道具を手渡したり、小声で手順を教えたりすることになっている。イックは各種の儀式に詳しく、今回行われる儀礼についてもティルドラスを十分に指導できるだけの知識を持っていた。
 だが、イックを介添え役とする案はサフィアに一言のもとに撥ねつけられる。今回の儀式は古法に則(のっと)った厳(おごそ)かなものであり、介添え役も、少なくとも尚書以上の地位にあるものでなければならぬという。ティルドラスの側近でそれに該当するのはチノーだけだが、彼にしたところで、決してこうした儀礼に詳しいわけではない。おそらく自分の役目に手一杯で、ティルドラスの手助けに回る余裕などないはずである。
 「何としても伯爵の邪魔をするつもりと見えますが、しかし策はございます。『蝉』どのの力を借りることといたしましょう。」
 「『蝉』の?」怪訝な表情になるティルドラス。「蝉」は忍びであり、むろん儀礼の知識など何一つ持ってはいない。
 「儀礼のことはご存じなくとも、『蝉』どのの音を操る力は役立ちます。手筈(てはず)は私にお任せ下さい。」
 こうしてアンティルの計画に沿ってティルドラスの部下たちに指示が与えられる。その中でチノーに与えられた指示は以下のようなものだった。ティルドラスに手順を教える必要はないので、自身の介添え役としての行動だけを間違えぬように覚えておくこと――。
 『何だというのだ。』それを思い出しながら、チノーはもう一度、心の中でつぶやく。
 確かに自分は儀式に詳しいわけではない。ティルドラスの手助けを完璧にこなすことは難しいだろう。だからといって、新参のアンティルにティルドラスへの手助けは不要などと言われるのは、自尊心が傷つくようで面白くない。
 『分からぬ。アンティルも、そしてティルドラスさまも、いったい何を考えているのか。』
 チノーの密かな不満をよそに時は過ぎ、式典の日がやって来る。宮廷からほど近い野外にしつらえられた会場の周囲には朝から大勢の見物人たちが集まり、これから行われる行事を遠巻きに見守っていた。
 「今回の儀式は、今では廃(すた)れてほとんど行われぬ、古(いにしえ)の由緒正しいものなのだ。」粗布の頭巾を目深にかぶり白い髭を胸に長く垂らした一人の老人が周囲の見物人たちに解説する。「ティンガル王家の朝廷は別として、諸侯の国でこの儀式が行われるのは、過去百年、絶えてなかったこと。まさか生きて目にすることができようとは思わなんだ。」
 「爺さん、学者かい?」見物人の一人が訪ねる。
 「学者ではないが、若い頃に師匠について礼法を学んでな。バグハート家のさる高官の家で儀礼の指南役をしておったこともある。今やめったに見られぬ儀式が行われると聞いて、矢も楯もたまらず、マクドゥマルからこの地にやって来たのだ。」老人は言う。
 「へえ、よく分かんねえが、何かすごいものなんだな。」彼の言葉に頷く見物人たち。
 定刻となり、合図のラッパとともに式典が始まる。楽師たちによる音楽の演奏、式部官による追悼文の読み上げ、僧侶たちの祈祷。その中でティルドラスも、主催者の席で静かに出番を待つ。
 「実に落ち着いたご様子ではないか、伯爵は。」周囲の見物人たちに、儀礼指南役の老人が言った。
 やがて主催者による拝礼となり、会場の中央へと進み出るティルドラス。その耳元で小さな声がする。
 ――踏み出すのは右足から。祭壇までは二十四歩。――
 声の主は少し離れた場所から彼を見守るイックである。それを「蝉」が、ティルドラスだけに聞こえるよう、彼の耳元に響かせているのだった。
 介添え役のチノーを背後に従え、祭壇に向かって歩き出すティルドラス。祭壇の前に進み出た彼の耳に、さらにイックの声が届く。
 ――跪(ひざまず)いての拝礼を二回、焼香を行い、花を祭壇に捧げてのち、立っての拝礼を一回。――
 ――左回りで後ろを向き、左足から踏み出して二十四歩で退出されますよう。――
 全ての手順をイックの指示通り終え、席へと戻るティルドラス。その落ち着いた様子に、周囲から感嘆したようなため息が漏れる。
 ティルドラスの拝礼に続き、正妻であるルロアを初め、第二夫人のメルリアン、息子のナガンほか近親者による拝礼が行われる。その中に混じって故人の妹である摂政のサフィアも、こちらはかなり安直に拝礼を済ませた。「大体良いが、摂政の拝礼はいかがなものか。」儀礼指南役の老人が不満げに言う。「先君の妹ぎみでもあり、摂政として国政を預かる立場にある以上、もっと入念な拝礼を行うべきだった。これでは伯爵の荘重な拝礼と釣り合いが取れぬ。」
 その後も祈祷、音楽、来賓や他国の使者による献花や追悼文の読み上げと式典は続き、やがて、最も重要な儀式であるティルドラスの二回目の拝礼にさしかかる。「ここだ、ここが難しい。この儀式が廃れたのも、ここで失敗して儀式を台無しにする君主が多かったためと聞く。これを無難にこなせれば、まさに有徳の君主と呼ぶにふさわしかろう。」と儀礼指南役の老人。
 周囲から視線が集まる中、ティルドラスは多少ぎこちないながらも落ち着いた動きで、複雑極まりない拝礼を滞りなく終える。
 「おお!」来賓の席から漏れる感嘆の声。
 「素晴らしい! これを見ることができただけでも、はるばるマクドゥマルから旅してきた甲斐があったというものだ。」儀礼指南役の老人が声を上げる。少し離れた場所の者たちまでがこちらを振り向くほどの、かなり大きな声だった。「よほど念入りに練習されたのであろう。ティルドラス伯爵はまこと孝心篤い方と見える。」
 そのあとティルドラスは三度目の拝礼も無難にこなし、式典は荘厳(そうごん)な雰囲気のまま幕を閉じる。「素晴らしい儀式であった。とりわけ伯爵の拝礼の見事さは希に見るものだ。」人垣が崩れ、見物人たちが帰って行く中で儀礼指南役の老人がつぶやく。「伯爵の拝礼は、実に見事であった。」それは独り言というより、何か、周囲の者たちに言い聞かせるような様子だった。
 儀式が終わり、部下たちとともに宮廷の一室に集まるティルドラス。「なんとか無事に終わらせることができた。」椅子に深く腰を下ろし、安堵したような口調で彼は言う。
 「お見事でございました。」彼に向かって頭を下げるアンティル。
 「いや、イックと『蝉』の手助けがなければ途中で立ち往生していただろう。ともあれ、皆、よくやってくれた。」
 「チノーさまもお見事でございました。」
 「………。」アンティルの賞賛に、チノーは複雑な表情で黙り込む。
 その時入り口から一つの人影が入ってくる。あの、見物人たちの中で儀式を解説していた礼儀指南役の老人だった。「戻られましたか。首尾は?」彼に向かって尋ねるアンティル。
 「ご指示の通り、見物人たちの中で伯爵の拝礼の見事さを吹聴いたしました。皆、熱心に聞いておりましたので、伯爵の声望を高める手助けはできたかと存じます。」そう言いながら、老人は頭巾とその下の鬘(かつら)、付け髭を取る。変装の下から現れたのは、バグハート家の忍群の頭領・アゾル=ザッカの顔だった。

 

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