ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(8)

第二章 パスケルの遺言(その4)

 「今回の戦いで、各国が毒気を使った兵器の有効性に気付いてしまった。」フィンケルは続ける。「報せを受けて、早くも一部の国が硫黄の生産や流通を握ろうと動いている。ベルガー伯国では、イヴォンプルでの硫黄採掘と領内での商取引を、自国と、同盟国であるアシュガル領・ミストバル領の者に制限する布令を出したらしい。」ベルガー伯国はハッシバル家から見てエル=ムルグ山地を越えた北西に位置する国であり、その名も「硫黄の山」を意味するイヴォンプルは、そのベルガー領内にある、ミスカムシル最大の硫黄の鉱脈を持つ火山である。
 「事が硫黄の奪い合いに終始しているだけなら良いのだが――。」とアンティル。
 「ああ。硫黄は産地も生産量も限られ、火薬の製造や医療への利用とも競合する。毒気を使った兵器としての使用は、今回のように小規模・局地的な戦いに限られるだろう。だが、遠くない将来、誰かが必ず、塩素が全く同じ用途に、より確実に、より大規模に使えることに気付く。」この時代のミスカムシルではすでに塩素の存在は知られており、主にアルカリと反応させて溶液や粉の状態にしたものが、消毒や衣類の漂白などに小規模に使用されていた。「気がかりな話はまだある。オーモール家の無名の工匠が、およそ一里(約300メートル)を飛ぶ火箭(かせん。ロケット)を作り上げたそうだ。」
 「確かに気がかりな話だが、オーモール侯爵は、その重要性を理解できまい。」
 「おそらくな。だが、いずれは、その重要性を理解し、そして戦に利用する者が現れる。いや、オーモール侯爵にしたところで、誰かが入れ知恵すれば、喜んで戦に使おうとするだろう。一国が総力を挙げて改良に励めば、三十里(約9キロメートル)を飛んだパスケル先生の火箭と比べても遜色ないものができあがるはず。そこに積まれるのは、周囲を焼き尽くす火器か、毒気をまき散らす薬品か、あるいは、君がその存在を予見した『病原体』か……。」
 「マッシムー家がアルイズン家を亡ぼした戦いの中でも、疫病で死んだ者の衣類や寝具をアルイズン領内で古着として売りさばき、その地で疫病を流行させようとしたと聞く。」アンティルは沈痛な表情で俯(うつむ)く。
 フィンケルの言葉通り、この時アンティルはすでに、ミスカムシル史上初めて「病原体」の概念を体系的に唱え、それが驚異的な増殖能力を持った目に見えない微小な生物ではないかという結論にまでたどり着いていた。しかし彼の説は一般に受け入れられず、一介の田舎医者が唱えた単なる奇説として、知る人さえほとんどない状態のまま世に埋もれている。
 「君が最初に『病原体』の考えを提唱した時、それを聞いた世間の医者どもは嘲笑ったな。もろもろの悪疫は汚穢(おわい)と気の澱(よど)みから生じる瘴気(しょうき)が引き起こすものと古(いにしえ)の書にある、そんなことも知らぬのか――と。」フィンケルの口調には、強い軽蔑と怒りが込もっていた。「古い考えに凝り固まった医者どもが、君の考えを受け入れず、疫病が広がるのを手を束(つか)ねて眺めるだけの一方で、天下の諸侯は疫病さえも戦に利用しようとしている。このままでは、たとえ君の説が世に受け入れられたとしても、真っ先にそれを使おうとするのは、病人を救うべき医者たちではなく、疫病を人殺しの道具としか考えぬ戦争屋たちだろう。科学は人々に多大な恩恵をもたらすが、また一方で、それが悪用されれば筆舌に尽くしがたい惨禍をももたらす――。パスケル先生が言われた通りのことが起ころうとしている。今はまだ、天下の諸侯は科学の力に気付いていないが、いずれ気付く者が現れるはずだ。科学の時代が幕を開けようとしている。だがそれは、このままでは人々の幸福のためではなく、大量殺戮のために使われることになるのだ。」そしてフィンケルは大きなため息をつき、絶望したように頭(こうべ)を振る。「科学への扉は万人に向けて開かれている。所詮、我々の間だけの秘密として隠し通すことなどできん。塩素の兵器としての利用を初め、パスケル先生がすでに発明し、そして封印した数々の禁断の技術も、いずれは世に知られることになる。」
 「せめて、それが戦のために使われぬ平和な世が訪れるまでは、その全てを秘して漏らさぬようにせよ、というのがパスケル先生の遺言だった。」つぶやくように言うアンティル。
 「私が来たのはそのためだ。」フィンケルは厳しい口調になる。「アンティル、君はここでいったい何をしているのだ。」
 「……何が言いたい?」
 「君がバグハート家に仕官した時、パスケル先生は言ったはずだ。学問を捨てて官吏の世界に身を投じるのであれば、その才を政治に生かして万民を苦しみから救うよう務めよ、と。君はあの誓いを果たさずに、このまま一介の村医者として人生を終えるつもりなのか? 平和な時代が来ないと徒(いたずら)に嘆くのではなく、平和を実現できる君主を見つけてその輔(たす)けとなるべきではないのか? 一年前、君がバグハート家の使者としてティルドラス伯爵に面会したあと、わざわざ私に便りを送って報せてきたな。あれは並々ならぬ人物である、近い将来、天下を平らげて民の苦しみを救う君主がいるとすれば、この人かもしれない、と。そのティルドラス伯爵が、今、目の前にいるのだぞ。なぜ、行って仕えようとしないのだ。」
 「正直に言おう。そのことを考えないわけではない。だがフィンケル、私は今迷っている。あの人物に仕えて良いものかどうかが分からぬのだ。」
 「思ったような人物ではなかったということか?」
 「逆だ。思った通りの人物と見た。だから恐ろしいのだ。」アンティルはかぶりを振る。「ティルドラス伯爵が仁慈の人であることは間違いない。メイル子爵に欺かれる危険を承知の上で行ったバグハート家への救恤(きゅうじゅつ)、摂政を出し抜くことまでして自ら戦場に赴き、自軍の兵による略奪を阻止したあの行動、あれは全て、本心から民のためを思ってのことだ。敵味方や身分の上下にかかわらず平等・公正に慈愛を注ぎ、自らをなげうってでもそれを世に行おうとする希有(けう)な資質を、あの人物は確かに持っている。だが、その慈愛は、家臣たちにとっても民にとっても、あまりに遠大で理解しがたいものだろう。おそらくティルドラス伯爵はこれから、その慈愛ゆえに、誰にも理解されぬまま、幾度となく裏切られ、挫折し、傷つくことになる。度重なる挫折と報われぬ善意に疲れ果て、伯爵の心が闇へと落ちた時、いったい何が起こるのか。私はそれが恐ろしい。」
 「………。」腕を組み、眉根を寄せながら黙り込むフィンケル。
 「もう一つ理由がある。宮廷を追われ、無位無冠の身となった今、私はティルドラス伯爵の知遇を得る術(すべ)を何一つ持たない。」アンティルは続ける。「あのまま諫大夫としてバグハート家に仕えていたなら、ティルドラス伯爵の目に留まることもあったろう。だが今の私は君の言う通り、田舎住まいの一介の村医者に過ぎん。仕官を求めて宮廷を訪れたところで門前払いとなるだけだ。いずれにせよ、しばらくはこのまま時を待ちながら、今後の身の振り方を考えるつもりだ。」
 「――また来る。」フィンケルはそう言って席を立つ。「今回この地を訪れたのは、君の安否の確認がてら、マクドゥマルの某家にあるという古文書を調べに来たのだ。これからそちらに向かう。だがアンティル、何があろうと、パスケル先生との誓いは忘れずにいてくれ。それが私の心からの頼みだ。」
 「分かっている。――道中気をつけてくれ。」
 別れの挨拶を交わしてアンティルの家を後にし、マクドゥマルの街中へと通じる道をたどりながら、フィンケルは独りごちた。「ティルドラス伯爵に仕えようにも、知遇を得る術がない……。なるほど、それも道理だ。邪道だが、私が一肌脱ぐか。」

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