ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(9)

第二章 パスケルの遺言(その5)

 一方、フィンケルを送り出したアンティルは、そのまま工房の中で、椅子に腰を下ろしたまま独り考え込む。
 『パスケル先生……。』
 若い頃、郷里のバグハート家を離れ、学問を修めるための旅に出たアンティルは、当時アシュガル大公国の国都ムロームに寓居(ぐうきょ)していたパスケルに出会い、彼に師事することになる。もともと医者としての修行をしていた縁での弟子入りだったが、パスケルの教えは、単に医者としての技に止まらず、病理学から人間の生理、さらにそれを取り巻く森羅万象にまで及ぶ広汎(こうはん)な知識をアンティルに授けてくれた。当時、フィンケルを含む他の六人の高弟たちもパスケルのもとで学んでおり、彼らの研究を手伝ったり互いに議論を戦わせたりする中で得た経験も、今にして思えば何物にも代えがたいものだった。
 だが、実りの多い日々も数年で終わる。バグハート家への仕官が決まり、師のもとを去らねばならなくなったのである。
 「そうか、行くか。」郷里で仕官することを打ち明け暇乞いをする彼の言葉に、パスケルは深いため息をつく。「残念だ。まだまだ教えたいことが数多くあるにもかかわらず、道半ばでお前を手放すこととなろうとは……。」
 「故郷には老母がおり、亡父の遺した貯えもそろそろ尽きます。幸い父の旧友が、郷里のバグハート家で諫大夫(かんたいふ)への仕官を斡旋してくれました。母を養うためには、故郷に戻って仕官するしかないのです。」苦渋に満ちた表情で答えるアンティル。「先生、私はここで学んだことを無駄にしたくはありません。官吏としての道を歩むとして、私はいったい何を目指すべきなのでしょう。」
 「政治に科学を。それがお前の為すべき事だろう。」少し考え込んでからパスケルは言った。「私が思うに、他の弟子たちの強みがおのおのの道に邁進しその深淵を究める深さにあるとすれば、お前の強みは、様々な分野の知識を自在に組み合わせて新しいものを作り出していく広さにある。その力を政治の世界で発揮すれば、必ずや多くの人々を救うことができるはずだ。お前を失うのは惜しいが、天下のためには、むしろ喜ぶべき事なのかもしれぬ。」
 「政治に科学を……、ですか。」
 「分かっていると思うが、この場合の科学とは、大地が球形で自転しながら太陽の周りを回っているとか、この世界の歴史は人々が信じている数千年、数万年などというものではなく少なくともその数万倍にも及ぶ長さであるとか、その遙か太古には今とは全く違う生き物がこの地上を闊歩していたとかいう、個々の事物・事象のことではない。それは単に、科学が明らかにした事実のほんの断片に過ぎん。むろん、そんな基本的な事実さえ、世人の多くは理解すらしておらぬわけだが。」小さくかぶりを振り、パスケルは続ける。「私が言う科学とは、物事の本質を見極めるに至る手段のことだ。もともと人の世に、あらかじめどこかから与えられた絶対の真理など存在しない。ならば、私情を排して謙虚に物事を観察し、確かな事実と確固たる論理に基づいて論を立て、異論を謙虚に受け止め、過ちがあればためらわず正して、少しずつ物事の本質へと迫って行く――、それが科学の方法であり、限られた能力しか持たぬ我らが真理へとたどり着く唯一の道となる。そのためには、身分の上下や経典の字句に囚われてはならぬ。最も低い身分の者が言うことでも、確かな事実と論理に基づいての言葉であればそれは正しく、万人が帰依する経典に記されたことでも、実際に観察された事実と食い違い、話の筋道も立たぬようなら、間違いとして退けられねばならぬのだ。」
 「真理は古(いにしえ)の経典の中にはなく、ただ眼前の森羅万象の彼方にこそある――。先生がいつも仰っていることですか。」
 「そうだ。それを政(まつりごと)に当てはめるなら、学問や知識を一部の者たちの独占物としない教育であり、人をその信条や主張の故に罰したりせず自由な議論を行わせることであり、身分や家柄を問わず広く平等に意見を求めて施政に生かす仕組みとなる。だが気を付けよ。それを口にするだけで、お前を八つ裂き・火炙りにしたがる者たちが数多く現れる。この世に愚者はあまりにも多く、力を持ち、しかも自らの愚かしさに気付いていない。私の婚約者は、経典が説く天地開闢(かいびゃく)の物語は単なる伝承・説話の類(たぐい)と考えるべきと口にしたために狂信者に刺し殺され、私の一番の親友は、平民や女性にも政(まつりごと)に意見を述べる機会を与えることをティンガル王家の直領で説いたところ、不穏の徒として投獄されそのまま獄死した。道は遠く、為すべき事はあまりに多い。決して命を軽々しく捨ててはならぬぞ。」
 「先生の仰ることが、私に果たせるでしょうか。」
 「容易なことではないだろう。お前を必要とする時勢に遭い、その才を奮える場を見つけ、何より、お前を理解し信頼してくれる主君にめぐり会う必要がある。残念ながら、お前が仕えようとしているニルセイル=バグハート子爵は、所詮、乱世の間隙を縫ってうまく立ち回ることで勢力を得ただけの人物だ。お前の才に気付くことはないだろう。跡継ぎのメイル公子も人の上に立つべき器量の持ち主とは思えぬ。いつか、その才を存分に振るう場を与えてくれる主君が現れたならば、主を替えることをためらってはならない。一人の主への忠を全うできぬ事より、万人のためにその才を使えぬことを恥じるが良い。」
 「心いたします。」うなずくアンティル。
 『思えばあれが、先生から受けた最後の教えだった。』椅子に深く腰を下ろし、天を仰ぎながら彼は考える。
 もう一度会って教えを受けたいと思いつつ、ついに願いは叶わなかった。アンティルが師のもとを去って数年後、パスケルは研究中の事故で爆死したのである。まだ四十台半ばの早すぎる死だった。爆発と続いて起こった火災で遺体の一部さえ残らず、フィンケルを初めとする弟子たちはわずかに残った師の遺品を集めて小さな墓を作るしかなかった。
 報せを受け悲嘆に暮れるアンティルをよそに、世間はパスケルの死を嘲る声に満ちていた。
 ――聞いたか? 妖術師のパスケルが死におったそうな。――
 ――それは重畳(ちょうじょう)。むしろ今まで、誅戮(ちゅうりく)にも遭わず生き長らえておったのが不思議じゃ。悪運の強いやつめと思っておったが、ついに命運尽きたか。――
 ――何でも、妖しの術を行おうとして失敗し、悪魔に掠われて地獄の業火に投げ込まれたと聞くぞ。外道の術に魅入られた者の末路よ。――
 ――聖なる経典を侮り、身分貴き方々を軽んじたため天罰が下ったのじゃ。小気味良いわ。――
 『この世に愚者はあまりに多く、しかも自らの愚かしさに気付いていない……。先生の言葉の通りでした。』宙を見据えながらアンティルは思う。『世の愚かしさを正し、人々の苦しみを救う……。先生の教えを行うためには、私はやはりティルドラス伯爵に仕えるべきなのでしょうか。しかし、どうやって?』
 「先生、晩ご飯できましたけど、――大丈夫ですか?」夕暮れ時の薄暗い工房の中で、灯りも点(とも)さぬまま座り続けるアンティルに、アルシアが心配そうに声をかける。
 その数日後のこと、マクドゥマルにほど近いとある村で、春に備えての農作業を始めるに当たって豊作祈願の祭祀が行われていた。
 村の外れ、林に面した広場の中心にかがり火のための薪が積まれ、そこに村人たちが、藁で作った家畜や竹の皮の家財道具などの供え物を、木の枝を裂いて房状にした幣(ぬさ)を添えて次々に置いていく。やがて日が落ち、祭祀の仕上げとして供え物の山に火が入れられた。
 燃え上がるかがり火。その前に村の長老が進み出ると、豊作を願う祝詞(のりと)を、節を付けて唱え始める。「父なる天に、母なる大地に、村人一同、畏(おそ)れかしこみ、願い奉る。これより一年、虫ども鳥ども、田畑に災いなすことなく――」
 その時だった。
 かがり火の中で、閃光とともに何かが爆発するような轟音が二、三度響き渡り、濃い白煙が立ち昇る。
 「な、何だ!?」「ひええっ!」あちこちから上がる悲鳴。と、その白い煙の中に、光に包まれた一つの人影が浮かび上がる。はっきりとは分からないが、その姿は確かに、甲冑を着込み槍を手にした武人のように見えた。
 「我は天帝の使者である。命により、天帝の仰せを汝らに告げに参った。」どこからともなく声が響く。普通の人の声ではない、深い洞窟の中から響くような重々しい声だった。
 一斉に平伏する村人たち。
 「ハッシバル伯爵に伝えるが良い。」煙の中の人影は言う。「マクドゥマルの南、小川のほとりの山家(やまが)に大賢人あり。今は知る者とてないが、ひとたび世に出れば、国を安んじ、万民の苦しみを救うであろう。その者の名はペジュン=アンティル!

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