ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(20)

第四章 冬終わる日に(その6)

 壊血病はこの時代、特に長期の航海や冬期の戦いで猛威を振るう病気として恐れられていた。体に力が入らぬようになり、関節がひどく痛み、やがて閉じていた古傷が開き、歯茎や毛穴からどす黒い血が流れ出し、最後には全身を走る激痛に悶え苦しみながら死んでいく。治療法はない。原因も、同時に集団で発生することが多いことから一種の伝染病とされたり、通気の悪い船室の淀んだ空気や冬の陰の気が生み出す瘴気が原因ではないかと考えられたりしていたが、確かなことは分からぬままだった。
 当時のミスカムシルで冬の戦が忌むべきものとされていたのも壊血病が大きな理由の一つとされている。その壊血病を予防し治療することができるというのである。周囲の者たちが驚くのも当然だった。
 「ならば、私の麾下の兵士で壊血病にかかっている者が数人いる。彼らを治すことができるとあれば、やってみせてもらいたい。」リーボックを押しのけるようにして進み出たユニが、食ってかかるような口調で言う。
 「宜しゅうございます。軍中には他にも壊血病の患者がいるはず。その方々も併せて私にお任せ下さい。」アンティルは事も無げに頷いた。
 「一つ条件がある。何か特殊な方術を修めていて、それによって治すつもりなのかも知れぬが、それでは戦陣の役には立たぬ。あなた自身は手を触れぬまま、治療の方法だけを示してもらいたい。」
 「結構でございます。私の処方する薬と、指定する食事をお与え下さい。数日中には快方に向かいましょう。」彼女の無理難題めいた要求にも、アンティルの自信に満ちた口調は揺るがぬままだった。
 『でまかせを。そこまで簡単に治るものなら、なぜこうも、世間の医者たちが苦労しているのだ。』眉をひそめるユニ。その横で、リーボックも半信半疑の表情のままだった。
 質疑応答はその後も予定の時間を大幅に超過して続けられたが、アンティルは終始、周囲からの敵意に満ちた問いかけにも控えめながら堂々とした態度で応じ、要所では質問者を沈黙させるような鋭い反論さえ見せる。やがて日暮れ時になり、会は終了となった。連れだって会場を後にしながら、なおも声高に論じ合う列席者たち。
 ――なんだ、あの男は。伯爵の寵を頼みおって!――
 ――開祖を侮るあの言葉、断じて許せぬ!――
 ――新参の軽輩のくせに、まるで古参の重臣のような態度ではないか。分をわきまえぬにも程があろう。――
 ――いや、しかし彼の申したことは筋が通っておったと思うぞ。伯爵の信任も、故なき事ではないのかも知れぬ。――
 ――謙虚なのか大言壮語の徒なのか判断が付かぬ。ただ、なかなかの人物ではあるようだ。――
 ――まずは様子を見ようではないか。あの者は壊血病を治せると言っておった。本当ならば、それだけでも、やはり評価せざるを得まいて。――
 周囲の反応は、アンティルに好意的な意見と批判的な意見がほぼ拮抗する状態だった。結局、アンティルを衆人の中で晒しものにしてティルドラスの側から遠ざけようというというチノーの思惑は外れた形になる。
 一方、執務室に戻ったティルドラスは、幾分安堵した表情でアンティルに言う。「まずは無事に終わって良かった。ただ、聞いていて、お前が全てを語っていないような気がしたのだが。特に、外交について無難なことしか言わなかったのは、何か意図があったのだろうか。」
 「列席者の中には摂政に近い立場の方も少なからず混じっておりました。こちらの手の内を全て晒すことは危険でございましょう。特にカイガー家と誼(よしみ)を結んで後ろ盾とする策は秘しておく必要がございます。」とアンティル。
 「天下を平らげ民を安んじることを目指すべきと言ったが、そちらは叔母上の耳に入っても構わぬのか。」
 「私は本心から申しましたし、伯爵に忠誠を誓う方々も、おぼろげながら私の言わんとすることを理解して下さったかと存じます。しかし摂政はそうは思いますまい。単なる大言壮語、現実感のない夢物語と取って、侮りこそすれ警戒を強めることはないはず。――ともあれ、壊血病の話が出たことは幸運でございました。実際に病を治してみせることで、ある程度の信用は得られましょう。」
 「しかしそれは無事に治せた上でのことだろう。もし治せなければ、私も庇いきれぬほど、お前の立場が悪くなることになりはせぬか?」心配そうに言うティルドラス。
 「確実に治せます。」アンティルはきっぱりと言い切った。「そもそも、壊血病は既に、原因も治療方法も明らかになっている病気でございます。それが世に広まらぬのは、単に医者たちの固陋(ころう)と上に立つ者たちの怠慢に過ぎませぬ。」
 そして彼は、今は滅びたアルイズン子爵家で、軍に蔓延する壊血病は餅乾(ビスケット)と乾し肉だけの糧食が原因ではないかと考え、綿密な調査と実験によってそれを証明し有効な治療法までを突き止めた軍医・ジャムス=リッツガーの功績と、彼の進言を聞き入れぬままマッシムー子爵家との冬の戦いに突入し壊血病患者の続出で惨敗を喫して国を亡ぼしたアルイズン家軍部の愚かしさについて、学者の情熱と悲憤をもって語り始めたが、長くなるのでここでは略する。その間ティルドラスは、真面目な学生が講義を聞くような神妙な面持ちで彼の言葉に聴き入っていた。
 「このように、病には大きく分けて外因性のものと内因性のものがございます。」壊血病に止まらず病理学全般に及んだ広範な話を、アンティルはそう締めくくる。外因性とは病の原因が体の外部からもたらされるものであり、毒物による中毒や暑気あたりのような環境的なもの、彼自身が提唱した病原体による病気などが該当する。一方、内因性のものは体の内部に発生した何らかの異常が病気を引き起こすものである。「壊血病はおそらく、新鮮な野菜や果物に含まれる何らかの成分が不足することで体に異常が発生するものでしょう。特定の栄養の不足という意味では外因性のものですが、病原体による病気とは異なり、内因性の要素も含みます。」
 「すると――」ティルドラスは少し考え込んでから言う。「その『病原体』が広まることを防げれば、疫病の被害も軽減できるということか。」
 「その通りでございます。」
 「とすれば、今後の国政の大きな課題となるな。幸い、叔母上の利害に関係する話でもなさそうだ。早めに何らかの手立てを取った方が良いか。」
 「御意。」彼の言葉にアンティルは満足げに頷いた。
 それから数日後、マクドゥマルの宮廷に驚きが広がる。アンティルの処方による治療を受けた壊血病の兵士たちが、彼の宣言通り、十日と経たぬうちに全員ほぼ完治してしまったのである。
 『ミスカムシル史大鑑』食貨志に記述されている壊血病予防薬の製法はずっと後代のものであるが、基本的にはこの時アンティルが処方したものを原型としている。秋の終わりから冬の初めに実った柚(ゆず)や橘(たちばな)などの実を搾り、防腐のため、塩または多めの砂糖(物語当時の砂糖は大変な貴重品だったため、アンティルの処方には使われていなかったはずである)を加えて玻璃(ガラス)の瓶や釉薬をかけた陶器の甕に詰める。これを冷暗所で保存し、翌年の春に野菜が潤沢に入手できるようになるまで毎日一定量、壊血病を発症した者には通常の二倍から三倍の量を飲ませる。空気に直接触れる状態では薬効が急速に低下するため、瓶は木栓(コルク)で蓋をして蝋で封をし、甕では油を加えて薄く液面を覆い、細い竹筒を差し込んで必要量を吸い上げるという形を取っていた。
 実はアンティルは既に数年前から、アルイズン家でリッツガーが行った研究を参考にこの薬を作り上げていた。しかし、バグハート軍での壊血病対策に使うべきというメイル子爵への進言は一笑に付され、他の医者たちから注目されることもなく、結局、自分のもとを訪れる患者たちに細々と使い続けるに止まっていた。だが、これ以降この薬はハッシバル領全域に急速に広まり、やがて兵営や遠洋航海を行う船には必ず準備されるものとなる。
 この結果を目にしてもユニは頑なにアンティルの力量を認めようとしなかったが、一方でリーボックは彼への見方を大いに改めたようだった。
 こうして少しずつアンティルへの評価が上向き、ティルドラスが彼を信任することへの不満も下火になる中、三月の中旬にティルドラスはマクドゥマルを出発し、ネビルクトンへと向かうこととなる。彼に従う者の中には、むろんアンティルも含まれていた。
 出発の時刻となり、宮門の前に止められた馬車へと乗り込むティルドラス。その彼に向かって一礼しながら、アンティルは言う。「伯爵、これからでございますな。」
 「そうだな。」彼の言葉に、静かな、しかし何やら強い意志を感じる口調で頷くティルドラス。「いよいよこれからだ。」

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