ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(17)

第四章 冬終わる日に(その3)

 「おお!」思わず声を上げるティルドラス。「いつから出仕していただけますか?」
 「さすがに本日今すぐというわけには参りませぬ。」とアンティル。「今宵は時間をいただき、明日、宮廷に参上いたします。」
 「それはまた急な――。」
 「時間がありませぬ。遅くとも三月の半ば過ぎには、伯爵はネビルクトンに向けて出発されねばならぬはず。その十数日の間に、この地でできることは全てやっておかねばなりますまい。」
 「どのような官位を望まれますか?」
 「官位は重要ではありませぬ。宮廷に自由に出入りができる程度の肩書きと、可能であれば、伯爵ご自身の私臣として、常にお側にあって進言ができる立場を与えていただければと存じます。」
 確かに、宮廷の人事権をサフィアに握られてしまっているティルドラスでは、彼を重職につけることはできない。仮にできたとしても、今度は他の部下たちからの強い反発を招くことだろう。実際、すぐ傍らのチノーなど、今にも噛みつきそうな表情でアンティルを見ている。「分かりました。先生の官位についてはこちらで考えましょう。まだまだ話したいことはありますが、それは先生が出仕されてからでも遅くはありますまい。ともあれ、お待ちしております。」少し考えたあと、ティルドラスは頷いて席を立つ。
 そのあと戸口の前でティルドラスたちを見送りながら、アンティルは傍らのアルシアに言う。「アルシア、どうやら私は、青史に名を残すことになったようだ。」
 一方、ティルドラスとともに宮廷に戻る道をたどりながら、チノーは浮かぬ顔だった。「ティルドラスさま、本当にあの者を登用されるのでございますか?」彼は言う。「確かにそれなりに博識とは思えますが、あの歳まで世に知られることもなく、バグハート家でも一介の諫大夫に過ぎなかった者。しかも聞き及びますところでは、あの者の師はパスケルといって怪しげな術を使う妖術師であったとか。神のお告げとやらも、まやかしであったと当人が申しております。そのような者を身近に置かれるのはいかがかと。」
 「世に知られぬ賢人というものがいると思う。主君に受け入れられぬ良臣というものがあると思う。妖しの術も、使い方次第では世の役に立つだろう。私はそれを確かめてみたいのだ。」ティルドラスは独り言のように言い、サクトルバスの方を振り返る。「サクトルバス、お前はどう見た。」
 「私は武を持ってお仕えする者。学問のことは分かりませぬ。」サクトルバスは答える。ティルドラスとアンティルの話の間も、彼は一言も発せずに傍らで話に聞き入るだけだった。「ただ、シュマイナスタイの森にいた時から、カイガー家がハッシバル家の動きに神経を尖らせ、しかし一方では誼(よしみ)を結ぶことも望んでいるのは身近で感じておりました。あの方の言われたカイガー家への対処は妥当なもののように思えます。」
 「ふむ。」
 「もう一つ。あの方の私に対する態度は終始、礼儀正しく敬意を払ったもので、私を奴隷として侮る色は微塵もございませんでした。身分や官位に囚われず、あらゆる人を人として扱う心をあの方はお持ちのようです。私事(わたくしごと)ながら、そのような方がティルドラスさまの配下に加わるのは喜ばしいことと存じます。」
 「なるほど、それは気付かなかった。」彼の言葉にティルドラスはつぶやく。
 翌日、アンティルはアルシア一人を伴って飄然(ひょうぜん)とマクドゥマルの宮廷にやって来た。与えられた官位は「郎(ろう)」。宮廷に出入りできる官吏としては最下級に近いもので、特に決まった職務はなく、状況に応じて使者や接客から事務的な雑務、宿直や門衛までこなす立場である。このほか非公式に、ティルドラスが私的に雇った専属の医師という立場で、彼とともに宮廷の奥向きにも出入りできる待遇を与えられる。
 ティルドラスが真っ先に彼に尋ねたのは、ハッシバル家本国から旧バグハート領に持ち込まれる悪銭の扱いをどうするかだった。法外な交換率で住民たちから良銭を巻き上げていた本国の商人たちは追い払ったものの、結局サフィアからの圧力を受け、旧バグハート領内でも悪銭の流通を認めざるを得ないような状況になってきている。それを見越して、一度は追い払われた商人たちが再び本国でかき集めた悪銭を持ってこの地に集まり始めているという。
 「どうしたものだろう。」立場上、家を訪れたときのような丁寧な言葉を一介の郎に対して使うわけには行かないが、彼ならば悪銭の流入を阻止してくれるのではないかという期待を込めた口調でティルドラスは言う。
 しかしアンティルはかぶりを振る。「結論から申し上げます。新しい銅銭の流入を阻止することは、おそらく不可能でございましょう。」すでに悪銭はハッシバル家本国で広く流通しており、いずれこの地にも浸透してくるのは目に見えている。何よりサフィアが、悪銭の使用を旧バグハート領にも強制する態度を崩していない。
 「しかしそれでは――。」
 「まずは基本に戻ってお考え下さい。何のために悪銭を禁じるか。それは、悪銭が流通することで物価が上がり、民を苦しめることになるからではございませぬか?」
 「それはそうだが……。」
 「悪銭の流入が防げぬのであれば、次善の手段として、その悪影響を最小限に止めるよう手を打つこと。これこそが、今為すべきことでございます。」対策として、実態に近い、悪銭二を良銭一と等価とする交換比率をあらかじめ定め、公的機関がそれを保証し交換にも応じる。悪銭の流通により物価が倍になったとしても、賃金や手持ちの現金も同じく倍になるならば、多少の混乱は避けられぬにせよ民の苦しみは最小限に抑えられるはずである。「ただ、それはそれで問題がございます。現在旧バグハート領内には交換に応じられるだけの悪銭がありませぬ。一時的に交換の仲立ちをするものを作らねばなりますまい。宮廷の版木彫り職人をお借りします。」
 この時代のミスカムシルでは、短期間に大量に印刷して配布せねばならない布告文などの原版を作るため、宮廷に専属の版木彫り職人が雇われているのが常だった。アンティルはその職人たちを集めて作業にかからせる。夜半には原版となる版木が完成し、翌日の朝にはそれを使っての印刷が早くも始まった。
 作られたのは、紙幣というより引換証に近いものだった。種類は三つで、表面(おもてめん)には良銭五枚、十枚、百枚をそれぞれ二倍の悪銭と交換する旨の文面が印刷され、さらに一枚ごとに異なる手書きの番号が振られる。番号は単純な通し番号ではなく、偽造による不正を防ぐため「下二桁が三の倍数」「上から二番目の桁が額面ごとに決められた値」などいくつかの法則に沿って付けられていた。裏面には役所の朱印が押されたほか、そのままでは見えず、引き換え時に特殊な薬品で処理をすると浮かび上がる墨で目印が書き込まれる。
 同時に、新しい銅銭の流通と交換に関する布告が旧バグハート領全域に出された。今後、ハッシバル家本国で改鋳された銅銭がこの地でも流通すること。交換率は良銭一に対し悪銭二と定めること。商取引及び賃金についても、その換算率に基づいて支払う銅銭の数を算出すべきこと。ただし交換のための悪銭の不足が見込まれることから、現物の銅銭と同じ価値を保証した引換証が発行され、各地の役所で交換に応じること。手数料は、良銭から引換証、及び引換証から悪銭への交換であれば無料、引換証から良銭への再度の交換の場合は引換証一枚につき良銭一枚を徴収すること。引換証はそのまま商取引に使用しても差し支えないほか、税の納入にも利用でき、この春の納税期に引換証で税を納める者には税額の一割を軽減する措置が取られること――。
 「これで悪銭の流入に伴う混乱はある程度避けられましょうが、一方で、当面の交換に応じられるだけの悪銭も準備しておかねばなりませぬ。」必要な手配を済ませたあと、アンティルは言う。「通貨の発行にあたって最も重要なのは信用でございます。もし、何らかの理由で交換が滞るようなことがあれば、一気に信用は失われ、悪銭の流通など比較にならぬ混乱が起きましょう。ティンガル王家やオーモール家の轍を踏んではなりませぬ。」
 都・ケーシを中心とするティンガル王家の直領、及びその西に位置するオーモール侯爵家では、それぞれ、金銀や銅貨と同等の価値を持つことを謳った紙幣を自国の領内で大量に発行し、苦しい財政を補おうとしている。だが、実際には交換に応じられるだけの銅銭や金貨・銀貨の準備がないまま紙幣だけが濫発され、それによって経済の大混乱を招いていた。
 「幸い、悪銭を持ってこの地に集まっている者たちがおります。利用させてもらいましょう。」アンティルはそう言って笑った。
 こうして、命令を受けた捕り手たちが各地に散り、荷物に悪銭を詰め込んで旧バグハート領に集まっていたハッシバル家本国の商人たちを、見つけ次第片端から捕まえては、荷物ごと有無を言わさずマクドゥマルの宮廷に連れてくる。

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